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収奪文化財のあるべき場所~「国際主義」vs.「現地主義」という虚構を超えて

五十嵐 彰(公益財団法人東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター調査研究主任)

 日本政府のこうした姿勢は、第二次世界大戦の敗戦後、一貫しています。1946年4月19日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、すべての略奪財産を没収し、GHQに報告するよう日本政府に命じました。対象とされたのは1937年7月7日以降の日本軍占領地における略奪財産で、「日本の法規のうえで合法的であると否とを問わない」とされました。しかし略奪文化財に関する国際法廷は設置されず、日本政府からGHQへの報告は「略奪された考古学資料はまったく見つからなかった」という驚くべきものでした。

 この時から30年以上を経て、1973年5月16日、日本学術会議が会長名で内閣総理大臣に「戦時中に中国等から持帰った研究資料の返還について」という申し入れを行ないました。しかしその対象が「中国占領期間中日本人が正当な手続きによらずして入手、持帰った研究資料」とされていたために、ある市民団体から批判を受けることになりました。それは「侵略戦争のさなかに、どのような『正当な手続き』がありえたでしょうか」という本質的な批判でした。
 こうした批判は、まさに私たちの「歴史認識」を問うものです。1995年の村山富市総理大臣(当時)談話で示されたように、「植民地支配と侵略によって(略)多大の損害と苦痛を与え」たことに対して「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明することを、私たちは歴史認識の基本としなければなりません。そうしたうえで「合法」と「正当」の違いについて考えることが必要です。

 一般に、法律に従った正規の手続きによる入手を「合法的に入手」と言います。それに対して法律に反する方法で入手することを「非合法」あるいは「不法(違法)に入手」と言います(「不当」は「不法」を含む語であると考えてよいでしょう)。法律論では「合法」と「不法」は明確に区別されます。そして、文化財が不法かつ暴力的に入手された場合には「略奪」という言葉が充当されて「略奪文化財」という表現が用いられてきました。

 それでは、「合法」であることはすなわち「正当」を意味するのか考えてみましょう。入手方法に問題があるとされる文化財(筆者はこういった文化財を、不動産の「瑕疵〈かし〉物件」になぞらえて「瑕疵文化財」と称している)の返還要求を拒む人たちはよく、「当時の法律に則って入手したもので、正当な手続きによるものである。だから略奪文化財ではなく、返還する義務はない」と主張します。もしこの主張に納得する人がいるとしたら、それは自分の中に「内なる植民地主義」が根付いていることの証と言えるでしょう。
 なぜなら、植民地あるいは占領地という特殊な時代環境のもとでなされた「合法的な取引」は、とても「正当」とは言えないからです。決して対等とは言い難い「売り主」と「買い主」の関係において、「売り主」は意に反して「買い主」の示す値段で手放さざるを得なかったのではないでしょうか? 売り主は売却を断る自由がどれほどあったでしょうか? こうした社会関係のもとでなされた「合法的」な商取引は、「正当」とは言い難いのです。

 ですから私は「不法であり不当」な入手を意味する「略奪文化財」だけでなくより広い範囲をカバーするために、「合法であるが不当」に入手した文化財については「収奪文化財」という用語を適用することを提案しています。そうすることで、倫理的に問題がある「当時の法律では合法であったが不平等な社会構造における不当な取引によりもたらされた」文化財をより正確に表現することができると考えます。 

(2)「返還により文化財が毀損される」という懸念
 文化財返還を拒む側から、「文化財保全のための予算や技術が不十分な原産地では、返還後の展示設備や保存技術に問題がある。文化財の劣化や損失につながるおそれがある。現在の環境において所蔵し続けることこそが国際公益に適う」といった主張がなされることがあります。確かに、今後そうした可能性が全くないとは言い切れないでしょう。しかし一般論としてはそうであったとしても、返還を求められているすべての事例について、こうしたことが当て嵌まるかと言えば、けっしてそのようなことはありません。返還後の原産地における保存環境が、現所有地の保存環境に匹敵するような場合でも、返還を拒んでいることをどのように説明するのでしょうか。
 原産地と現所有地の経済格差が大きかった時代ならばいざ知らず、あるいは個別の事例について述べるのならばまだしも、現在における一般論としてこうした主張を繰り返すのは、文化財返還についてある種の負のイメージを印象づけることを目的としていると考えざるを得ません。

(3)〈もの〉の本来の価値は〈場〉〈ひと〉が揃ってこそ発揮される
 カメルーンの人たちが、自らの祖先の像を求めてドイツの博物館の収蔵庫を訪れた際の映像を見たことがあります。薄暗いスペースで捜していた小像を見出した人々は、涙を浮かべながら「あなたが戻られるのを故郷でお待ちしています」といった言葉を唱え、踊るように体を揺らしていました。
〈もの〉としての文化財が、その帰還を待ち望んでいた〈ひと〉と出会った場面でした。〈もの〉は、それを作り出した〈ひと〉と〈場〉がそろうことで、はじめて本来の価値が発揮されるのです。

 ところが、あるべき〈場〉から持ち出されて遠く異国の収蔵組織に展示・保管されている文化財は、単なる〈もの〉としてのみ扱われています。たとえ〈もの〉と〈もの〉との関係性が示されることがあったとしても、〈もの〉と〈ひと〉と〈場〉の総体的な関係性は失われています。本来の文化財は、それを作り出した人びとと一体となって評価されるべきです。
 私たちは、奪われた文化財という〈もの〉を見るとき、〈もの〉の帰還を待っている人たちにまで想いを広げることができているでしょうか。

二項対立図式の陥穽

 近代以降に植民地あるいは占領地から持ち出された文化財をめぐり、返還を求められる側(所蔵組織)と返還を求める側(原産地)は、対立する構図で捉えられがちです。言い換えると、返還を求められる側は「文化国際主義(Cultural Internationalism)」を掲げ、求める側は「文化ナショナリズム(Cultural Nationalism)」にこだわっているかのように描かれます。

 しかし文化ナショナリズムは、返還を求める側の主張を表現するのに適切とは言い難い用語です。正確には国家を単位とするのではなく、「文化現地主義(Cultural Localism)」と形容すべきです。文化現地主義は、それぞれの現地における所有を原則とし、それを尊重する「文化多元主義(Cultural Pluralism)」、あるいは「文化的アイデンティティ(Cultural Identities)」重視の主張に繋がります。

 一方で現在の所蔵組織が掲げる文化国際主義は、一歩間違えれば反省なき「文化帝国主義(Cultural Imperialism)」となりかねない危険性があります。

 これまで見てきたように、返還を求められている側の言い分はことごとく破綻しています。それにもかかわらず相変わらず奪った側と奪われた側が「国際主義vs.現地主義」として位置づけられて、あたかも両者の理念が拮抗しているかのような構図が語られています。なぜでしょうか? それは、こうした構図を描くことによって、返還を求められている側が現状を維持できるように延命を図っているからではないでしょうか。しかし実際は、人間としてなすべき当然の事柄を求めている側と、それを頑なに拒んでいる側の対立に過ぎないのです。

 普遍主義を標榜する博物館組織は、原産地から返還を求められると「文化財を世界に対して公開するか、それとも現地で独占するか」という極論を用いて二者択一を迫ります。しかし返還を求める側は、けっして公開を拒み、独占しようとしているわけではありません。所有する本来の権利がある原産地で世界に向けて公開しようとしているのです。
 冒頭の声明に署名したような「普遍的」な博物館がかつての植民地宗主国に偏在しているのは、なぜでしょうか? ロンドンやパリに普遍的な博物館が存在するのであれば、カイロやナイロビに所在することもあり得るでしょう。

文化財を通じて新たな関係を築く

著者情報

公益財団法人東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター調査研究主任

五十嵐 彰

いがらし あきら

1961年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。専攻は第2考古学(考古学方法論など)。公益財団法人東京都教育支援機構 東京都埋蔵文化財センター調査研究主任、慶應義塾大学非常勤講師として勤務し、韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議、中国文化財返還運動を進める会の世話人を務める。著書に『文化財返還問題を考える』(岩波ブックレット、2019年)がある。

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