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パリオリンピックにおける「スポーツウォッシング」批判を考える

西村章(フリーライター)

 だが、この過剰なオリンピック報道は政治的意図に操られたスピンコントロール(情報操作)にちがいないという指弾は、政党や政治家の力を過大に評価した陰謀論的発想といったほうが妥当であるように思う(もちろん、スポーツの熱狂を何かの隠れ蓑に利用しようとする動きに対しては常に細心の注意が必要だが、それは、仕組みを生み出し操作する強大な力を持った何者かがいると断定する陰謀論とは明確に別のものだ)。
 今回のパリオリンピック中継や報道で多くの人が抱いたであろう違和感の数々は、わざわざスポーツウォッシングという言葉を持ち出すまでもなく、長年指摘され続けてきた日本メディアの旧弊な体質として批判すれば充分こと足りる。
 過剰なメダル至上主義やそれに基づく国別メダル数カウント、ナショナリズムを煽る報道内容、各社横並びの視聴率至上主義的番組編成、努力と感動の物語に回収しようとする凡庸な選手インタビュー等々、これらはいずれも今回のオリンピックに限った現象ではなく、何十年も前から連綿と批判されてきた問題ばかりだ。
 スポーツは、斜陽化をたどるテレビ局にとって安定した視聴率(≒広告収入)を見込める数少ない優良コンテンツで、他局に視聴者を奪われないために「よそがやるならうちはもっとやる」とばかりにチキンレースにも似た肥大化競争が続き、それが現在の供給過剰な状況を招いたこと、また、スポンサー企業が機嫌を損ねて離れていくことを怖れて放送内容はますます無難で日本的事なかれ主義に拍車がかかり、それによってスポーツ報道の批評性がどんどん軽視されていったことは、過去にも様々に検証され批判されてきた。
 つまり、マスメディア、特に放送業界の過剰な五輪シフトは、陳腐きわまりないオールドメディアのこのような旧弊な問題(上掲箇条書きの三項目め:日本のマスメディアの構造的課題)がまたしても露呈しているだけ、と考えるのがもっとも合理的で説得力のある理解だろう。

ロシアの問題から考える

 ただ、そうはいってもこれらの洪水のような報道が、オリンピックを愉しむ人々に対してスポーツウォッシングがもたらすものと同様の、一定程度の「パンとサーカス」効果を与えてしまうことは事実だろう。上で紹介した斎藤氏のコメントも、オリンピックの華やかさに気を取られるあまり、目の前にある社会の重大な問題から注意を逸らしてしまいがちな状況に警鐘を鳴らし、注意喚起をしたいという意図からあのような発言を行ったのだろう。
 だが、この溢れるようなオリンピック情報が作り出す「パンとサーカス」状況は、すでに説明したとおり、あくまでもバランス感覚を欠いたメディアの機能不全により生じた結果であって、為政者や何らかの権力者たちによる意図的な大衆操作ではないと考えるのが妥当だ。端的に言ってしまえば、現代は1936年のベルリンとは違う、ということだ。
 だが、いや、だからこそというべきか、そんな現代社会でも驚くくらい簡単に、スピンコントロールとしてのスポーツウォッシングが成立してしまう場合がある。その具体例がロシアだ。スポーツウォッシングという現代的な問題についてロシアは非常にわかりやすい例であり、今回のオリンピックとも関連する事案なので、以下でいくつかの指摘をしておきたい。
 IOCがロシアとベラルーシのパリオリンピック参加を禁止したのは、2022年以降続くウクライナへの軍事侵攻がその理由だ。だが、その軍事侵攻はそもそも2014年のソチオリンピック休戦協定期間中に行ったクリミア併合に端を発する。
 この蛮行は、しかし、2018年のサッカーワールドカップ開催によってイメージが上書きされてしまった。サッカーの元アメリカ代表でパシフィック大学教授J・ボイコフ氏らはこのイベントをスポーツウォッシングだと指摘して批判したが、その声は大会礼賛の声にかき消され、ロシアが舞台を用意した華やかな競技大会にひたすら夢中になることを世界は選択した。
   そんなふうに「アップデート」されていたロシアの印象が、2022年のウクライナへの全面侵攻(これも北京オリンピック休戦協定期間中の行為だった)までの間、彼らの本性を隠す都合のよいベールの作用を果たしたことは、否定しようのない事実だろう。その意味では、ロシアにスポーツウォッシングを許してしまったことや、世界がそれに安易に乗ってしまったことへの反省は、スポーツ界全体でもっと謙虚に共有されてもいい。今回のパリオリンピックは、それを顧みるひとつの好機にもなったはずだ。

パリオリンピックを通して見えたこと

 ちなみに、パリオリンピック開催前には国連で休戦協定決議が採択されたが、この決議は有名無実なただのお題目で、ウクライナでも中東でも、そしてスーダンなど世界のどの紛争地域でも、まったく効力を持たなかった。
 休戦協定決議の効力を発揮させたいという真摯な意志が本当に国連やIOCにあったのならば、オリンピック開催中に何度でもそれを強調することはできただろうし、各国のメディア単位でも何らかの行動や実行は可能であったはずだ。休戦協定そのものに直接焦点を当てるかどうかはともかくとしても、紛争当事者を大きく取り上げるなどの手法はいくらでも考えられただろう。
 たとえば冒頭でも触れたウクライナやパレスチナの選手たちがオリンピックで戦う姿を伝えることは、視聴する人々に対してオリンピズムとオリンピック・ムーブメントの意義をなによりもわかりやすく明快に啓蒙し、平和の大切さを強く訴えかけることにもなったにちがいない。
 しかし、その重要性と意義に比して日本のオリンピック報道、特に放送メディアでは、彼らの姿はほとんど伝えられることがなかったように思う(対照的に活字メディアの場合は、明確な意図をもった紙面構成に反映された記事や報道が散見された)。オリンピック関連番組をすべてチェックしたわけではないので断言はしないが、テレビ報道は例によって例のごとく「日本人選手」「メダル獲得」の大騒ぎに終始し、ウクライナ代表やパレスチナ選手の動向をほとんど伝えることがなかったように思う。あるいは伝えたとしても申し訳程度の内容で、視聴者の印象に残らないほど熱量の低いものだったのではないか。苛烈な紛争地域の選手たち以外の話題でも、たとえば、難民選手団初のメダル獲得(シンディ ウィナー・ジャンケウ ヌガンバ:ボクシング女子75キロ級:銅)という画期的なできごとがあったことを、日本のテレビ放送を通じて記憶している人は、いったいどれほどいるだろう。
 日本のオリンピック中継やニュース等が、このような選手たちの活躍や動向を通じて近代オリンピックが(少なくとも名目上は)体現しようとしてきた〈スポーツを通じた平和への希求〉を報道というかたちで表現できていれば、おそらく斎藤氏もオリンピック観戦を「ボイコット」することにはならなかったのではないか。

アスリートアクティビズムについて

著者情報

フリーライター

西村章

にしむら あきら

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)、『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』(集英社新書)などがある。

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