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常識を疑え!

なぜ「がん放置療法」が受け入れられるのか?

香山リカ(医師)

 新聞の企画で、『患者よ、がんと闘うな』『がん放置療法のすすめ』などの著作で現代医学に対する警鐘を鳴らし続ける放射線科医・近藤誠氏と対談する機会があった。

 これまで近藤氏の著作、論文などを読む中で、率直に言って「なぜここまでがん医療を否定するのか」とその姿勢に疑問を抱いていた。近藤理論はとてもシンプルで、がんには転移の可能性が低く、全身への悪性度の低い“がんもどき”と、手術をしても早晩、転移を起こして助かる見込みのない“本物のがん”の二種類しかないという。

 前者であれば“がんもどき”はその臓器でゆっくり大きくなるだけだから、命が冒される危険は低い。ほとんどの場合で手術の必要はない。また、転移の可能性の高い“本物のがん”であれば、手術や抗がん剤はその場しのぎの効果しかないわけだから、あえて生活の質を落としてまでもつらい治療を受けるのは無意味だ。いつか転移が起きて命が奪われるその日まで、からだにメスを入れることなく、好きなことを思いきりやったほうがよほど充実した日々を送れる。もし痛みなどが出てきたら、そのときだけ病院に向かって、疼痛緩和の治療を受けるのがよいだろう。だからいずれにしても、がんは検査しない、もし検査して見つかってしまってもそのまま忘れて放置する、というのが最善の方法なのだ、と近藤氏は明快に言い切る。

 ところが実際に対談した近藤氏は、著作でのやや過激な主張とは違い、とても穏やかで誠実な医療者であった。野心や虚栄心とは無縁の人柄のようで、「がん放置療法」はあくまで近藤氏の長年の研究と人生観からもたらされたものだったのだ。

 ここで大切なのは、この「医者の人生観」というポイントである。近藤氏の最新刊『「余命3カ月」のウソ』(2013年、ベスト新書)の最終章では、「いま僕自身が進行がんだとわかったら、どうするのだろう」と自分の身に進行がんという事態が生じたとき、どう治療法を選択し、死が迫り来た場合、どう受けとめ、どう死に行くのか、という問題がシミュレーション形式で書かれている。医者まかせにせずに「治療法は自分で考えて決めます」「できるだけ明るく、みんなの負担にならないように死んでいきたい」「でも、自分と向き合うときは、正直でいたい」といった言葉は、日ごろから患者さんのみならず、自分自身の死や人生という問題に真剣に向き合っていなければ出てこない言葉であろう。

 私も人のことは言えないが、医療関係者は日々の仕事に追われるあまり、じっくり「命とは」「充実した人生とは」という問題を考えたことがない、という人も少なくない。一方で医者の仕事というのは、ほかのどんな職業よりも「人の生涯」や「生と死」に近い。しかし、現在の医学部のカリキュラムは、低学年からどんどん専門科目を学ぶ方向にシフトしており、文学、哲学などいわゆる教養系の科目に割かれる時間は減る一方だ。また、医学生が覚えなければならない知識も増える一方で、とてもゆっくり小説を読んだり映画を見たりはできないというのが現実なのだ。言うまでもないが、医者になればますます多忙になり、人の生死にいちばん近いところにいるにもかかわらず、「命とはなにか」といった本質的な問題を考える余裕はほとんどなくなってしまう。

 そんな医者に機械的に治療されるよりは、次のように語る近藤氏を信用したくなるのは、ある意味、当然のことなのではないか。

「死の淵で、自分はなにを思うのか。どうふるまうのか。どのように人生を去りたいか。『自分自身の死にぎわ』は、すべての人にとって、人生の大テーマです」(前掲書)

 いま医者など医療関係者が本当に考えなければならないのは、「がんを放置するのは科学的に正しいのか」といった問題ではなく、「私は自分自身の命や人生をどう考えるか」ということなのではないだろうか。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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