一部おじさんの「俺のこと誘ってる?」的勘違いはどこからくるのか
雨宮処凛(作家、活動家)
「所得倍増」どころか給与の低下も著しい。経済財政諮問会議の調査結果によると、1994年と2019年の世帯所得の中央値を比較したところ、35歳から44歳では104万円減少、45歳から54歳ではその倍近くの184万円も減っていたという。
そんな「失われた30年」で辛酸を舐め続け、あと少しで50代を迎えようとしているのが団塊世代を親に持つ人が多いロスジェネだ。
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気がつけば自分が20歳くらいの頃の親の年齢に迫りつつあるのに、親がその時手にしていたものを私自身、何ひとつ手にしていない。結婚や子ども、ローンを組んだ家などだ。50代を目前にしても、「一人前」を満たす記号を手に入れられない人が多い世代。
そんなロスジェネの胸の奥にあるのは、大きな剥奪感だ。さまざまな機会を、チャンスを奪われたという思い。
それだけではない。「受け入れられなかった」という痛みも抱えている。特に同世代男性の中にはこれをこじらせている人も少なくない。社会に出る時、企業から受け入れてもらえなかった。それ以降、非正規で働いてもどこにも受け皿を見つけられなかった。そこに「ずっと彼女なし」が加わると、異性からも受け入れてもらえなかったというストーリーができあがる。最近、22年7月に39歳で死刑が執行された加藤智大(秋葉原無差別殺傷事件で逮捕)について執筆しているのだが、あの事件の背景にも、そんな剥奪感がちらついて仕方ない。
一方で、「勝ち組ロスジェネ」も、ナチュラルな自己肯定感とはほど遠い。なぜなら、勝ち残る過程で筆舌に尽くしがたい苦労をしているからだ。屈辱の中、歯を食いしばって勝ち上がってきた彼らは強烈な自己責任論者であるものの、努力をやめたら今の立場を失ってしまうという恐怖感に常に駆られている。
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さて、ここまで書いてきて、年配男性に関する長年の謎が少し、解けた気がする。
常々私は、彼らの「自分はイケてる」と思ってそうな言動が不思議で仕方なかった。例えば年配男性のセクハラには「本人はガチ恋」というパターンが少なくない。既婚男性のおじさんが、部下や取引先などの若年女性に本気で恋し、相手は力関係ゆえ無下(むげ)にもできず、それを「向こうも気がある」と勘違いしてエスカレート、というケースだ。
しかし、もし自分が年配男性だったとしたら、「自分なんかが好きになったら気持ち悪がられるだけだろう」と思うはずだ。というか、「若い女」時代から今に至るまで、誰かを好きになるたびに——それが「推し」であっても——「私のような人間があの人を好きになって申し訳ない」とどこかで思ってきた。この感覚、同世代とそれより下には性別問わず、なんとなくご理解頂けるのではないか。しかし、ナチュラルに世界に「受け入れられる」経験を積んできた彼らは拒絶されることなど想定もしていないのかもしれない。「俺が口説いたら俺のことを好きになるはず」というのは成功体験がないと到底思えないことで、彼らの自己肯定感は経験と経済成長に底上げされてきたのだろう。同時に相手が振り向かなかったとしても、「女ごときに」否定されたくらいでぐらつかないほどの男尊女卑と自信も持ち合わせているっぽい。もちろん、これはあくまで一部年配男性の話だ。
一方で、受け入れられたい世界に受け入れられなかった時の脆さも私たちは知っている。1998年、年間自殺者が3万人を突破したことは前述した通りだが、その時に増えた自殺者の多くが中高年男性。企業社会的なものから見捨てられた時、一気に心が折れてしまうのだ。
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さて、さんざん年配男性について書いてきたが、このようなメンタリティは下の世代であってもいわゆる「成功者」には受け継がれている気がする。一方で団塊女性はと言えば、性別や年齢や時代を言い訳にいろいろなものを諦めさせられ、飲み込んできたという印象だ。そこに男性たちのような屈託のなさはない。
最後に書いておきたいのは、ロスジェネとそれ以降の世代の剥奪感のやっかいさだ。
前述した小田急線の事件の犯人は「幸せそうな女性を見ると殺したくなった」と言ったが、ネット上には昨今の「#MeToo」などを受けて男性が攻撃されていると感じ、フェミニストを執拗に叩いたり、女性蔑視を隠さない男性たちも多く存在する。
ロスジェネ世代である批評家の杉田俊介氏は、著書『男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論』(ワニブックス、2022年)で、いわゆる弱者男性たちに「ぼくらは戦うべき敵を間違えるべきではない」と呼びかけている。
「恋愛によって異性から救ってほしいとか、有名人になって一発逆転しなきゃとか、排外主義者やインセルやアンチ・フェミニズムの闘士に闇落ちするとか」の貧しい選択肢に走るのではなく、自分の弱さを受容し、肯定しようと。
経済成長時代を生き、「日本経済」という下駄を履いていた世代と違い、ロスジェネとそれ以降の男性たちが自らを肯定していくには、これまでのやり方は通用しない。
が、昭和的な男らしさが「有害」なものとなった今は、男性たちにとっての大きなチャンスという気もするのだ。
「男らしさの鎧」から自由になった同世代以降の男性が模索しながらどんな道を切り開いていくのか、私はちょっと楽しみでもある。