東アジア反日武装戦線・桐島聡死去を受けて、今、『腹腹時計』を読む
雨宮処凛(作家、活動家)
桐島聡がこのマニュアルをどこまで守ったのか、半世紀にわたる逃亡生活ができたのはこの「都市ゲリラ兵士の心得」的なものがあったからなのか、それとも関係なかったのかはわからない。
しかし、20代前半の若さにして全国指名手配犯となり、あらゆる場所に手配書が貼られ、おそらく「日本でもっとも知られた顔」だった彼は、半世紀を生き延びてきた。しかも、40年間も同じ職場で働きながら素性がバレることはなかったのだ。
晩年の彼を知る人によると、保険証がないから歯医者にも行けず、歯はない状態だったという。給料は振込ではなく手渡し。写真を撮られることを極端に嫌がり、自分の指名手配写真が貼ってある銭湯に通っていたというから大胆だ。
そんな桐島聡の目から、この半世紀の日本はどう見えていたのだろう?
一度は「繁栄と成長」を謳歌したものの、東アジア反日武装戦線の事件から20年も経たずにバブルは崩壊。以来、長い停滞が続き、雇用は不安定化。彼らが唯一闘っている存在と認めた「日雇い労働者」は「日雇い派遣」という形でフリーター層に広がり、2000年代にはネットカフェ難民という形で若い世代のホームレス化が始まった。日本は格差社会となり、貧困が蔓延し、かつて「植民地支配」という言葉とセットで語られた韓国にも平均賃金を抜かれるなどの衰退の一途を辿る日本。
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それだけではない。
桐島聡が指名手配犯となってすぐ、逮捕されていた9人の東アジア反日武装戦線のメンバーのうち3人は「釈放」されている。日本赤軍が1975年と77年に海外で大使館占拠やハイジャックなどの人質事件を起こし、日本の獄中にいる過激派の仲間の釈放を要求したのだ。「超法規的措置」として10人以上が釈放され、その中に東アジア反日武装戦線のメンバーも3人いた。そうして彼らはそのまま、日本赤軍に合流。
もし、この時点で桐島聡が捕まっていたら。彼も「超法規的措置」として釈放された1人となり、日本赤軍に合流していたのかもしれない。
しかし、彼は逃亡犯。この時点ですでに学生運動は下火になっており、それから長い長い時間、「無風」が続いた。そうして2000年には日本に潜伏していた日本赤軍の最高幹部・重信房子が逮捕。それから11年後には東日本大震災が起きて原発が爆発。全国で脱原発デモが開催されるようになり、「市民デモ元年」なんて言葉が流行ったりした。官邸前には原発再稼働に反対して毎週数万人が押し寄せるようになり、それは「紫陽花革命」と名付けられた。15年には安保法制に反対する学生たちが「SEALDs」を結成。国会前にやはり数万人が集まった。
11年から15年にかけてこのようなムーブメントがあったわけだが、これに胸震わせた団塊世代は多い。特に学生運動経験がある人々は狂喜し(もちろんすべての人ではないだろうが)、官邸前や国会前のデモに参加していた。
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あの喧騒を、団塊世代より少し下の桐島聡はどんな思いで見ていたのだろう? 電車に乗れば1時間ちょっとで国会前に来れる神奈川県の藤沢市で、何を考えていたのだろう?
聞きたいこと、知りたいことはたくさんある。韓国産業経済研究所の事件に関わっていないなら、なんの事件に関わったのか。なぜ、出頭よりも逃亡生活を選んだのか。今、東アジア反日武装戦線の起こした事件をどう思っているのか。被害者や遺族への思いはどんなものなのか。
問いたいことはまだまだある。連続企業爆破事件の少し前には、連合赤軍事件が起きている。凄惨な仲間殺しが発覚したことで世間は学生運動にドン引き。その数年後に起きた東アジア反日武装戦線の一連の事件はそのドン引き度をさらに強固にしたわけで、その後、若者に「政治」が禁じられるような空気が日本を覆い尽くす。その過程で若者たちは「革命」ではなく「消費」に邁進していくわけだが、そんな空気の中では、若者が社会の矛盾に疑問を持ち口にしたとしても「社会のせいにするな」と一笑されるようになっていく。それがのちの「自己責任」社会の構築に一役買い、さらには団塊ジュニアを生きづらくさせる大きな要因となったわけだが、そのあたりについてはどう思っているのだろうか?
叶うことなら、そんな質問を投げかけてみたかった。
だけど、彼の死によってすべては闇の中だ。
半世紀前の熱狂の最後の「戦後処理」。それが令和6年、終わった。