私たちはいつからこんなに結論を急ぎ、人を敵・味方に分け、堪え性がなくなったのか
雨宮処凛(作家、活動家)
そんなご時世で私が大切にしているのは、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉だ。これは、すぐに結論が出ない事態に直面した時、不確実さやあいまいさに耐える力、というような意味。「秒で正論により論破」などの対義語と言ってもいいのではないだろうか。
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そんなネガティブ・ケイパビリティについて、最近、英文学者の小川公代さんと哲学者の谷川嘉浩さんが対談している記事を読んだ(「ネガティブ・ケイパビリティが求められる時代 確信への抵抗と対話を」朝日新聞、2026年1月7日)。
〈身体感覚を伴う経験が希薄になるSNSなどでは、自分の不随意的な反応や欲望に意識的になるのは難しい。他者に対して攻撃的になったり、ひどい場合には誹謗中傷したりすることが起こりやすい。現代社会には「わかっている」気になってジャッジし、論破や差別、暴力を行使する方法論がはびこっている。だからこそ、性急に「わかった気になる」ことを回避しながら考え続けるネガティブ・ケイパビリティが求められているのでしょう〉(小川)
こんな問いかけから始まる対談で、谷川さんは以下のように言う。
〈何かに反応したくなったとき、いきなり発信や行動に結びつけないことも大事だと思う。SNSでは、みんなが何に注目してしゃべっているのかというトレンドが気になる。でも、そこで何かを言わないといけないかというと、そんなことはない。観察する。待つ。反芻する。一見、受動的な営みを復権する必要があるのではないでしょうか〉
それに対して小川さんは、〈沈黙を許さず、「正しさ」を求めなきゃいけないような風潮に浸されている(後略)〉と答える。
もちろん、卑怯な沈黙や、責任逃れ・無視といった意味を持つ沈黙は良くない。が、誰もが条件反射的に発信できる上、たったひとつの言葉で敵・味方に分類されてしまう時代だからこそ、私は沈黙を大切にしたい。
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そんなネガティブ・ケイパビリティについて、谷川さんは〈「絶対的な確信に警戒心を持つこと」とも換言できると思います〉と語り、小川さんは以下のように言う。
〈ネガティブ・ケイパビリティという能力は、想像して立ち止まることではないでしょうか。決して「答えがない」「正しさがない」ということを言いたいわけじゃない。「これが正しい」と間違った方向に暴走してしまわないための能力を、私はそう呼びたい〉
「暴走」という言葉が、今の時代を言い当てている気がした。
そう、あらゆることが急激に変化し、秒単位で判断を求められる世の中で、私はちゃんと、立ち止まりたいのだ。そうしてゆっくり考えたいのだ。それこそ1カ月とか1年とか、それくらいのスパンで考えたい。少し前、SNSがない頃は、そんなことが許されていたではないか。
同時に思うのは、フェアでありたいということだ。
よって私はここ最近、「極力、人とつるまない」ことをテーマとしている。
誰かとつるむ安心感を、私もよく知っている。しかし、誰かとつるむと、そこからきっと、忖度が始まる。この人から、このグループからどう見られるかを考えてしまう。どんなに気をつけていてもそんな自己保身が、絶対に始まる。そして若かりし頃の鈴木さんのように、身内へのパフォーマンスとして何か・誰かを叩くような行動をしてしまうかもしれない。そんな自分の弱さを知っているからこそ、フェアでいるため、そして書き手として誠実であるため、誰ともつるまないと少し前、決めた。もちろん、時と場合によっては必要な連帯はしたいけれど。
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さて、最後に書いておきたいことは、SNSで身内や仲間を意識した振る舞いをする時点で、相当SNSに依存した状態なのでは? ということだ。怒りなど、自分の感情に「いいね」がつくと、脳から快楽物質が出ることは知られている。それがエスカレートしていくと、やめたくてもやめられなくなっていく。自分がそんな状態にいないか、今一度、振り返ってみてもいいのかもしれない。
ということで、鈴木邦男について書いていたら、はからずも非常に現代的なテーマとなっていた。やっぱり鈴木さんっていろんなことを先取りしていてすごいな……。そう改めて思ったのだった。
ああ、鈴木さんに会いたい。50歳を過ぎると、会いたい人があの世にどんどん増えていく。こういうふうにして、人は死ぬのがあまり怖くなくなるのだな、と学んでいる。