「ストリートチルドレン」と呼ばれて5 揺れる心
工藤律子(ジャーナリスト)
交差点でガラス破片の上に乗ってみせる芸で日銭を稼ぎ、一時はコカイン系の薬物にも手を出していたカルロス。路上生活が長引くにつれて、その心身がより深く傷ついていくのが、私たちにもわかった。それは彼といるほかの子どもたちも同様で、社会に見放されたと感じる彼らが、反社会的な者たちに信奉者が多い死の聖女「サンタ・ムエルテ」を信仰するようになったのも、当然の流れなのかもしれない。そして子どもたちのアクティーボへの依存は、ますます進行していった。

ねぐらとしている廃ビルに集まり、ストリートサッカー大会でトロフィーを獲得したことを自慢する「ロス・オルビダードス」の少年たち。1992年 撮影:篠田有史
恥じらいを失った者たち
ある昼下がり、カルロスたちがいる広場へ行くと、普段見かけない青年数人が目に入った。その中の2人が、こちらに気づいて近づいてくる。
「なんて偶然だ! 元気だった?」
そう言いながら手を差し出したのは、私たちがまだメキシコシティの路上で子どもたちの取材を始めてまもない頃、よく会っていた「少年たち」。もう20代の若者になった彼らだった。
忘れもしない「ロス・オルビダードス(忘れられた者たち)」。自らをそう名づけた子どもたちの集団は、まるでひとつの大家族のように、年上の者が年下の子どもたちの面倒を見ながら、街の中心部にある廃屋となったビルで生活していた。多い時は、50人はいただろう。ビルの床下にある暗くて天井の低い、でも面積は広くて外や上の階よりは暖かい空間が、彼らのねぐらだった。篠田はある晩、寝袋を持ってそこに泊まり込んだが、「アクティーボの臭いがプンプンするうえ、暗がりの中でネズミが体の上を走るのを感じた」と、語った。その時の少年たちが、今、目の前にいる。

久しぶりに、「ロス・オルビダードス」の中では年長組だった“ネネ”こと、アレハンドロ(左)と再会した。彼は時々、交差点で信号待ちの車のフロントガラス磨きをして稼いでいた。2005年 撮影:篠田有史
彼らは、私たちが出会った数年後、ビルの建て替えのために追い出され、散り散りになった。当時の仲間はどうしているのかと尋ねると、1人がこう言った。
「大半はもう死んでしまったか、まだ路上暮らしだ。でもオレはもう路上生活をしているわけじゃない。近くで仕事をしているから、たまにこうして路上の後輩たちの様子を見にくるんだ」
それは、アレハンドロ(27)、仲間に「ネネ」と呼ばれていた青年だ。ネネたちの近くでは、カルロスをはじめとする「現役のストリートチルドレン」が、相変わらずアクティーボを吸っていた。それを横目に、ネネがため息をつく。
「昔は路上暮らしの子どもでも、普通の人たちの前で薬物を使うことを恥じらう気持ちがあった。だから、仲間とねぐらでアクティーボを吸うことはあっても、真昼間の道端ではやらなかった。でも今は皆、どこでも平気で吸いながら歩いてる」
彼の指摘は、この街の路上での薬物の使用が、どれだけ日常化しているかを浮き彫りにしていた。
ネネが憂えるように、カルロスたちは、ねぐらにいようが、交差点で働いていようが、ほぼ1日中、ポケットに入れてある「モナ(アクティーボを浸したテッシュ)」を取り出しては口元へ持っていく。目にする通行人たちも、もはやそれが普通であるかのような感覚に陥っているようだった。それどころか、交差点で車のフロントガラスを磨いて稼ぐ子どもたちに近づいてきて、数ペソのコインを手渡し、モナをひとつ買っていく警察官まで見かけた。恥じらいを失ったのは、子どもたちだけではなかったのだ。
語り始めた少年
薬物使用については恥じらいゼロになってしまったカルロス少年だったが、それなりに礼儀正しいところもあった。例えば、私と一緒に歩いて道路を横断する際は、前に出て車を止めては、私が安全に渡れるよう、エスコートしてくれた。また、私を知らない路上少年がしつこく物をねだってきたりすると、「彼女はボクの友だちなんだ。失礼なことはしないでくれ」と、制止した。付き合いが長くなり気心が知れてくるにつれ、知り合いとの信頼関係を大切にしていることが、その振る舞いを通して伝わってきた。

私たちからのおみやげ「ドラゴンTシャツ」を着て、路上仲間の少女と戯れるカルロス。2004年 撮影:篠田有史
他者との間に生まれたささやかな友情に感謝することも、忘れなかった。
「この間、ボクのあだ名を日本語でどう言うか、教えてくれたでしょ。あれ、ほんと楽しかったよ」
そう目を細める。彼のあだ名「ラティータ」は、日本語で「Konezumi(小ネズミ)」だと教えた時のことだ。私たちが日本で買ってきてプレゼントしたドラゴンのキーホルダーを仲間に奪われた時などは、お金を払うなら返すと言う相手に、すんなりコインを手渡した。
「え、せっかく稼いだお金を渡しちゃうの?」
そう不思議がる私に、
「だってこっちのほうが大事だもの」
と、戻ってきたキーホルダーを目の前で揺らしてみせる。

カルロスは、この日、私(左)たちと一緒に乗合バスに乗り、メキシコシティ旧市街にある博物館へ出かけた。2004年 撮影:篠田有史
そうして距離が縮まるにつれて、カルロスが自分のことを話してくれる機会も増えていった。
例えば、日本から何カ月ぶりかに戻ってきた時、「どうしてた?」と尋ねると、警察によって強制的に施設に入れられていた、と打ち明けた。
「3カ月間も閉じ込められていたんだ。そこでは毎朝5時起きで、部屋の掃除をして、その後、長い説教を聞かされ、言われたことをちゃんとやらないと、膝にブロックをのせて床に座るというお仕置きを受けた。そんなだったから、ほかの施設での映画上映会に出かけた時に、隙を見て脱走したんだ」
脱走少年は、公的保護施設の生活環境は最悪だった、と訴えた。だが、「ひとつだけ、いいこともあった」と続ける。
「その施設にいる間は、アクティーボとか、一切使わなかったんだよっ」
なんだ、使わないほうがいいということ、頭ではわかっているんだ。私は、心の中でそうつぶやいた。
嫉妬
その後、カルロスの住まいは、これまでいた地下鉄駅上の広場よりも南にある、よりこぢんまりとした広場に移った。以前も一時期、そこにいたことがあったが、今度はより多くの仲間と共に、ビニールシートのテントを張って暮らしていた。そこには、年上、年下の少年少女だけでなく、日本なら「ホームレス」と呼ばれる大人も何人かおり、なかには乳母車に赤ん坊を乗せている若い女性もいた。
1990年代にティーンエイジャー中心の子どもたちが集っていた頃に比べると、その場の空気は、より重く陰気なものに感じられた。家出少年・少女が肩を寄せ合う、というのではなく、そこには何かしらの主従関係のようなものが存在していた。路上生活が長い中年の男や女、庇護者のような顔をした大人が、子どもたちを支配しているようなところがあった。それでも子どもたちは、親にすら見守ってもらった経験がないからか、その支配を受け入れているようにも見えた。
そんななか、年頃になったカルロスは、やがてガールフレンドをつくりたいと望むようになる。その頃、周りには意外と大勢の少女がいたからだ。
私たちがこの街で取材を始めた頃には、路上暮らしの子どものほんの1割ほどしかいないと言われていた少女たちが、この頃には3割を超えるようになっていた。それだけ経済的に苦しい家庭内の状況が、悪化していたのだろう。1994年にメキシコと米国とカナダの間で北米自由貿易協定(NAFTA)が発効して以降、メキシコでは、以前よりも急速に格差が拡大し、貧困層の男たちはまともな仕事も稼ぎも得られないストレスから、ますます周囲の女性――恋人や妻、娘――に暴力を振るうようになっていた。大抵は家事手伝いや家政婦として働かされていた貧困家庭の少女たちも、自分の家の中にすら安らげる場所を見出せなくなると、敢えて過酷な路上生活を選択するようになったのだ。

当時、路上には少女の姿が増え、彼女たちは身を守るために、大勢の少年たちとともに暮らしていた 撮影:篠田有史