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連載

スレブレニツァの虐殺から23年。戦犯の息子、ダルコ・ムラジッチの声

第7回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

 父親のことを聞きたいと切り出した。
 ムラジッチ将軍はハーグの法廷で唯一表情が大きくほころんだのは、証人として出廷した明石康・元旧ユーゴスラビア問題担当国連事務総長特別代表が「セルビア人に対しては、終始愛国者であった」と証言をしたときであったという。それはムラジッチ将軍にとっては、潔白であると言われるよりも誇らしい言葉であったのであろうか。ならばスレブレニツァでの虐殺は、彼なりの「愛国者」としての行動だったということか。
 尚武の気風を貴び、軍人時代は少ない給料に一切の不満を言わず、つましい生活をしていたという。それはどのようなものであったのか。
「普段の父は軍人のイメージとは反対にとてもあたたかくて、優しい人でした。一つだけ厳しかったのは、私たちの義務について。つまり私と姉は勉強をしなければなりませんでした。それに対しては厳しかったです。父は仕事上、よく家を空けていました。しかし一緒にいるときは、山に行ったり、海に行ったりしては、軍事施設に滞在しました。それが思い出です。
 父の価値観の中では、経済的なものは高い位置を占めていなかったので、平均的な軍人の生活を送っていました。戦争が始まって、ハイパーインフレが始まると、他の一般市民の人々と一緒の生活を送っていました。一時期は、ひと月5ユーロくらいの給料しかなかったので、それでやりくりをしていました。司令官に昇進しても一般の軍人と同じ待遇で良い、それが彼の強い要望でした。当時は私も姉も学生だった。インフレが酷い時は学生用の食券を使って学食に並び、家族で分けあって食べていました」

虐殺、指名手配、潜伏生活

 素朴な疑問として立ち上がってきたのは、息子として、戦犯訴追されていた父親をどう見ていたのか。1995年のスレブレニツァの虐殺について、父から何か聞いてはいないのか、ということであった。
「95年当時、私はベオグラード大学で電気工学を学んでいましたが、何も聞きませんでした。私たちの家族の間では、父の仕事について一切話をする機会はありませんでしたし、特に子どもに対しては何も語りませんでした。一つだけ覚えている重要な思い出があります。父の母が『あなたがその虐殺の指令を出したのか? はっきりと答えて欲しい』と問いただしたとき、『私のことを疑っているのですか』と答えていました」
 戦地と、国連部隊との折衝の場とを往還していた父との物理的なすれ違い。加えて、父もまた家族には血なまぐさい現場のことは一切、口にしなかったということか。
 ICTYに訴追されてからはどのような生活をしていたのか。デル・ポンテ検事が血眼になって探しても逮捕に至らなかったのは、やはりムラジッチ将軍を匿うシンパが多かったことの証左でもあろう。国際社会から数々の制裁を受けながらも、民族の英雄を引き渡したくはないという民衆からの支持が無ければ、インターネットが急速に普及し始めた時代に隠れ通せるものではない。
「父に対する大衆の支持があったのは確かです。訴追されてからは、16年に及ぶ長い期間の中、いろいろな段階がありました。セルビア大統領がミロシェビッチだった時代には、国が父を引き渡すことはなかったので、特に隠れる必要はありませんでした。96年に脳卒中を患って体を壊しました。たまに逮捕されるのではないかという情報が入ると、兵舎に行って兵士の間に身を隠したりしたこともあります。2000年10月5日(ミロシェビッチ政権が倒されたブルドーザー革命)以降も、家族として同じ家で住み続けました。父はその頃は軍人を退役して年金生活をしていました。しかし、その後ミロシェビッチ自身が逮捕され、ハーグ法廷に送られると(01年7月)、それ以後は身を隠すために家を出たのです」
 民族主義者のミロシェビッチが独裁を敷いていた時代は、ICTYに訴追されても国家によって守られていたと言えるだろう。拙著『悪者見参』にも記したが、当時のセルビア世論のほとんどが、「戦争犯罪は追及すべきだが、まずは国内法で裁くべきだ」という論調であった。
 しかし、ミロシェビッチ政権が崩壊するとパタリと風向きが変わる。ミロシェビッチの失脚後にセルビアの首相となったゾラン・ジンジッチの手によって、戦犯容疑者が次々と逮捕されてハーグに送られることになった。ジンジッチ自身、この行為が民族主義者からの大きな反感を買い、03年3月に暗殺されてしまう。
 暗殺直後に、ジンジッチが所属していた民主党の議員にインタビューしたことがあるが、「EU加盟に向けて進みたいならばICTYにいつまでに戦犯を何人送れ、など、散々西側からプレッシャーをかけられたゾランは、急ぎ過ぎたことで殺されてしまったのだ」と語っていた。
 ところで、明石康の分析によればミロシェビッチは「機会主義的ナショナリスト」である。いわば大衆からの支持を取り付けるための民族主義者であったという。果たしてムラジッチはミロシェビッチに対してどのような評価をしていたのか。
「父は、ミロシェビッチの政治的意図は理解できたが、実現のために動かしていた戦略は良くなかったという意見でした。二人は共にセルビア民族のために戦った同胞ではありますが、しばし離れることもありました。最後にミロシェビッチから要望があったのは、1999年、コソボ紛争でNATO軍からの攻撃があることが分かったときのことです。ミロシェビッチから軍事顧問をやってくれないか、という提案がありました。父はそれに対して、軍人として生きるのは望むところだが、政治的な仕事はやらないと断りました。何を考えていたかはともかく、ミロシェビッチに対しては大きな尊敬の念を持っていました。そしてそれはミロシェビッチも同じだと思います」

国際社会とセルビアとを隔てる溝

「今は、セルビアと西側社会の間で、あのときどういうことが約束されて、どういうことが実現されたかを考える必要があるのではないでしょうか。紛争後、国際社会はセルビアを一方的に悪者にして、『民主主義のために』『生活を良くするために』戦犯を引き渡せという要求を突き付け、それをジンジッチは遂行しました。そのために多くのセルビア人は誇りを傷つけられました。しかし、西側の約束は、ほとんど実現されていません。それを今、我々は確認できるのではないでしょうか」
 ダルコはトルココーヒーを口に運んだ。セルビア側の見方からすれば、ボスニア紛争では95年にデイトン和平合意を受け入れ、コソボ紛争では(承認はしていないものの)2008年以降の実質的なコソボ独立を許した。それにもかかわらず、セルビアはEUへの加盟から程遠い。

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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