スパイ暗殺未遂疑惑、領土拡張…復権を目指すロシアに歯止めはかけられるか?
熊谷徹(ジャーナリスト)
ロシア人たちは、冷戦終結後に、西欧がポルトガルからウラジオストクまで広がる「ユーラシア共同体」を作ることをロシアに対して提案することを期待していた。しかしNATOとEUは「共同の家」を作ることを提案せず、半ば事務的に東方拡大を進めることによって、ロシア人の心を傷つけた。
最近ロシアの知識人たちと話をすると、「EUとNATOはロシアの権益を侵そうとしている」とか「ロシアは欧米諸国によって包囲されている」という猜疑心を感じる。長大な国境線を持つロシアは、歴史上の経験から外国による侵略に強い不安感を持っている。実際同国はナポレオンによる侵略(1812年)、日本によるシベリア出兵(1918年)、ナチスによる侵略(1941年)など外国軍の侵攻で辛酸をなめてきた。これらの体験が世代を超えて受け継がれ、今なお多くの市民の心に西側に対する猜疑心を植え付けている。先日ドイツで講演を行ったあるロシア人の政治学者は「90年代に西欧諸国はロシアを拒絶した。我々は欧州に再び戦争がやってくると考えて、軍事力を強化することにした」と述べ、現在の東西対立の原因は西欧側にあるという見方を強調した。彼の「ロシアは西欧に従属する存在にはならない」という言葉は、ロシア人たちの自尊心が過去30年間に深く傷つけられたことを示唆していた。
ウクライナはかつてソ連の一部だった。その国で親EU派が権力の座についたことはプーチンの逆鱗に触れた。もしもウクライナがEUに加盟したら、ポーランドやチェコのようにNATO加盟も申請するかもしれない。これはロシアにとって旧ソ連領にNATOがより深く食い込むことを意味する。
勝者はしばしば傲慢になり、敗者に対するデリカシーを欠く。冷戦後のNATO、EUの東方拡大を進める上で、欧米の政治家、官僚たちはロシアの複雑な心情に対するきめ細かな地政学的な配慮を怠った。このことが今日のロシアの専横的な態度の一因なのかもしれない。
バルト三国をめぐる緊張
もう一つロシアと欧米間の緊張を高めているのがバルト三国である。かつて独立国だったエストニア、ラトビア、リトアニアは第二次世界大戦中にソ連に強制併合された。バルト三国はソ連が崩壊する直前に独立して、2004年にNATOとEUに加盟した。これによって前の冷戦時代とは異なり、ロシア本土がNATO加盟国と直に国境を接することとなった。しかも社会主義時代にソ連はロシア系住民をバルト三国に移住させたため、ラトビア市民の約26%、エストニア市民の約25%はロシア系住民である。プーチンはクリミア半島のようにロシア系住民が多い地域を、ロシアの影響圏と見なしている。

バルト三国は第二次世界大戦後、ソ連に強制併合され、市民は弾圧に苦しんだ(ラトビアの首都リガで、ソ連の秘密警察KGBの支部が置かれていた建物)
このためクリミア半島の併合は、NATOや欧米諸国の政府に「プーチンはバルト三国の強制併合を試みるのではないか」という疑念を抱かせた。ロシアは2013年にポーランドとリトアニアと国境を接した同国の飛び地カリーニングラード周辺で、7万人の兵力を動員した大規模な軍事演習を行うなど、威圧的な態度を誇示していた。カリーニングラードは、ロシアの領土で最西端に位置し、同国にとって最も重要な軍事拠点の一つである。かつてこの町はナチス・ドイツ領の東プロシアにあり、ケーニヒスベルクと呼ばれた。だが連合国が1945年に行ったポツダム会談で、ケーニヒスベルク周辺の地域は、ソ連領の飛び地とされることが決まった。ソ連にとっては、バルト海に面し、冬にも凍らないカリーニングラードの港は、大きな魅力だった。
ロシア軍はカリーニングラード周辺に、約22万5000人もの兵力を集結させている。地上部隊は、約800両の戦車、約1200両の装甲兵員輸送車、約350門の火砲を保有する。つまりバルト三国とポーランドは、約10個師団のロシア軍部隊と隣り合っている。
またロシアは、カリーニングラード周辺にSA400型対空ミサイルを配置したほか、核弾頭を装備できる短距離弾道ミサイル「イスカンダル」も配備している。さらにカリーニングラードに近いバルティスク港は、ロシア海軍のバルチック艦隊の母港である。
だがバルト三国は、いずれも小国であり、独力で国土を守ることは難しい。各国の予備役を除いた正規軍の兵力は、リトアニア約1万5700人、ラトビア約5300人、エストニア約6400人にすぎない。
特に欧米諸国を悩ませているのが、バルト三国とポーランドを結ぶ地域が、極めて細くなっているという地理的条件だ。
カリーニングラード周辺のロシアの飛び地の東端と、ロシアの友好国ベラルーシの西端との間の距離は、わずか100キロメートル。ロシア軍がカリーニングラードから戦車部隊をベラルーシまで走らせれば、数時間でバルト三国をポーランドから切り離せる。
NATO戦闘部隊を旧ソ連領土に初配備
NATOは、この100キロメートルの地峡部を「スバルキ・ギャップ」と呼ぶ。スバルキとは、この地峡部のすぐ南にあるポーランドの町の名前だ。NATOは、「ロシアがバルト三国の占領を試みるとしたら、まずスバルキ・ギャップを占領して、欧米諸国がポーランドからバルト三国に地上兵力を増派するのを妨害しようとする」と予想している。スバルキ・ギャップは、NATOのバルト三国防衛の上で最大のアキレス腱なのだ。アメリカのシンクタンク・ランド研究所は、2016年に発表した報告書の中で、「ロシアは戦闘開始から36時間以内にバルト三国の首都を占領できる」と予測している。

NATOは「ロシアの西側に対する姿勢は、クリミア併合を境に敵対的になった」と断定し、14年9月にウェールズで開いた首脳会議で、ロシアに対する軍事戦略を根本的に見直した。16年6月には米軍とイギリス軍、ポーランド軍が約3万人の兵力を動員して軍事演習を実施した。さらにNATOは2017年1月にバルト三国にドイツ、イギリス、カナダなどの戦闘部隊約4500人を常駐させた。かつてソ連だった地域にNATOが戦闘部隊を派遣したのは、冷戦終結後初めてである。バルト三国は抑止力を高めるために、米軍の常駐も希望したが、米軍は拒否。彼らはポーランドに戦車や装甲戦闘車を含む4000人規模の戦闘部隊を配置するに留め、軍事演習などに参加することにより、「出張ベース」でバルト三国を支援する。
勿論わずか4500人の小兵力では、ロシア軍の総攻撃の前に、ひとたまりもなく打ち破られてしまう。
しかし重要なのは、兵士の数ではない。ロシアは万一バルト三国を攻撃した場合、これらの国だけではなく、アメリカを盟主とする軍事同盟NATOと直接戦うことになる。このことは、ロシアに対する重要な抑止力となる。かつてのソ連ですら、NATOと直接銃火を交えたことは、一度もなかった。その意味で、バルト三国へのNATO軍の常駐は、これらの小国のための「保険」だ。戦力的には弱小でも、戦略的には極めて大きな意味を持っている。
2017年6月中旬に、NATOは「ボトニア」という架空の国がスバルキ・ギャップを占領したというシナリオの下に、この地域で軍事演習を行った。ボトニアがロシアを想定していることは、言うまでもない。この演習では、アメリカ、イギリス、ポーランドの混成部隊がヘリコプターでバルト三国とポーランドを結ぶ地峡部に送り込まれ、ボトニア軍を攻撃。その後南方から米軍の戦車部隊が進入して、スバルキ・ギャップを制圧した。一方ロシア軍はベラルーシ軍と合同で、2017年9月、バルト三国周辺で推定10万人もの将兵を動員した大規模な軍事演習を実施した。バルト海に面したこれらの国々の市民の不安は高まる一方だ。

エストニア市民の間では、国境付近で軍事演習を繰り返すロシアに対する不安が強まっている(エストニアの首都タリン。写真撮影・熊谷徹)
「勢いを増すロシアを前に、アメリカ・ファーストが”西側”を揺るがす~新・東西冷戦の時代(2)」に続く。
※1 「インディペンデント」2018年3月7日
※2 「ガーディアン」2018年3月13日
※3 「ガーディアン」2018年4月4日
著者情報
ジャーナリスト
熊谷徹
くまがい とおる
1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局在勤中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツのミュンヘン市に在住。統一後のドイツの変化、ヨーロッパの政治・経済統合、安全保障問題、エネルギー・環境問題を中心に取材・執筆を続けている。著書に『新生ドイツの挑戦』(1993年、丸善)、『びっくり先進国ドイツ』(2004年、新潮社)、『顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』(2007年、新潮社)、『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争の真実』(2012年、日経BP社)、『日本とドイツ―ふたつの「戦後」』(2015年、集英社)、『偽りの帝国―緊急報告・フォルクスワーゲン排ガス不正の闇』(2016年、文藝春秋)、『イスラエルがすごい―マネーを呼ぶイノベーション大国』(2018年、新潮社)、『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』(2019年、青春出版社) など多数。『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』(2007年、高文研)で第13回平和・協同ジャーナリスト奨励賞受賞。ホームページはhttp://www.tkumagai.de/