勢いを増すロシアを前に、アメリカ・ファーストが”西側”を揺るがす
熊谷徹(ジャーナリスト)
メルケル首相はトランプの大統領就任以降、「我々はもはやアメリカを完全に信頼することはできない。自分たちの防衛は自分の手で行わなくてはならない」と語ってきたが、今回の合意離脱によって、欧州とアメリカの間の安全保障をめぐる信頼関係にさらに深い傷がつけられた(※2)。これは冷戦に勝った西側軍事同盟の凋落傾向を示すものだ。
トランプはこれまでも多国間関係の結束に亀裂を入れてきた。たとえば地球温暖化に関するパリ協定から脱退した他、中国などから輸入する鉄鋼とアルミニウムに関税をかけ始めた。彼はNATOについても「時代遅れの組織だ。他の加盟国が防衛負担額を増やさない場合には、アメリカは支援を減らすかもしれない」と示唆したことがある。
かつての東西冷戦の時代とは違って西側陣営が四分五裂の状態にあることは、プーチン大統領にとって思うつぼである。
今年ミュンヘン市内で行われたある会合でロシア人の学者が「最近ゴルバチョフ(元ソ連大統領)と話す機会があったが、彼は『現在の状況は冷戦の時代よりも悪くなっている』と語っていた」と述べた。確かにかつての西側陣営の盟主、アメリカが一貫した戦略を持たないまま自ら欧米間の絆を弱めているのは、グロテスクな現象だ。これは世界秩序の再編成を目指すロシアや中国にとっては渡りに船である。
偉大なロシアの復活をめざすプーチン
21世紀に入ってからのプーチン大統領の行動は、彼が「偉大なるロシアの復活」を目指していることを感じさせる。彼は05年4月に「ソ連の崩壊は20世紀最大の地政学的な破局だ」と語ったことがある(※3)。この言葉には、ロシア人たちが冷戦終結後に抱いた絶望と無力感が凝集されている。そしてプーチンの政策は多数のロシア人たちによって支持されているように見える。
現在のところ欧米とロシアの間には、本格的な交渉によって東西対立を打開しようとする動きは見えない。
「戦争になるかもしれない」という漠たる不安を抱いているのは、ロシア人だけではない。西欧でも年配の市民の中には東西間の険悪な雰囲気や各国でのナショナリズム、ポピュリズムの高まりについて懸念を強めている人が少なくない。
第二次世界大戦でのソ連の死者数は約2700万人、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの死者は約730万人にのぼる。欧州とロシアは夢遊病者のように戦争への道を歩む事態を避けることができるだろうか。
※1 「DPAインターナショナル」2018年5月11日
※2 「ガーディアン」2017年5月28日
※3 「インディペンデント」2005年4月25日
著者情報
ジャーナリスト
熊谷徹
くまがい とおる
1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局在勤中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツのミュンヘン市に在住。統一後のドイツの変化、ヨーロッパの政治・経済統合、安全保障問題、エネルギー・環境問題を中心に取材・執筆を続けている。著書に『新生ドイツの挑戦』(1993年、丸善)、『びっくり先進国ドイツ』(2004年、新潮社)、『顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』(2007年、新潮社)、『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争の真実』(2012年、日経BP社)、『日本とドイツ―ふたつの「戦後」』(2015年、集英社)、『偽りの帝国―緊急報告・フォルクスワーゲン排ガス不正の闇』(2016年、文藝春秋)、『イスラエルがすごい―マネーを呼ぶイノベーション大国』(2018年、新潮社)、『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』(2019年、青春出版社) など多数。『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』(2007年、高文研)で第13回平和・協同ジャーナリスト奨励賞受賞。ホームページはhttp://www.tkumagai.de/