「光州事件」を超えて〜韓国民主化の中で40年生き続けた光州5.18を知る(上)
徐台教(ジャーナリスト)
1980年5月19日には、第11空輸旅団3個大隊が光州に投入された。一方、市民側のデモには前日と異なり、学生以外の労働者、会社員、主婦なども参加した。背景にはあまりにも酷い戒厳軍の仕打ちへの怒りがあった。とはいえ、依然として市民は投石を行う程度で、発砲はしないものの着剣したM16ライフルを振り回す特殊部隊との差は歴然だった。
李氏はこの19日を指し「一度目の5月抗争(光州5.18)の質的な飛躍」と表現する。高校生にまで構わず暴力を振るい市内を掌握した戒厳軍を前に、「このままでは皆殺しになる。どんな犠牲を払っても奴らを光州から追い出してこそ、私たちが生き延びることができるという気持ちが芽生えた」と言うのだ。

全南道庁前に位置するヘリ射撃を受けたビル「全日ビル245」で筆者のインタビューに答える李在儀氏。(筆者撮影)
市民の抵抗は少しずつ強まっていった。油を入れたドラム缶に火をつけて転がし、道端の花壇や電話ボックスなどを使い、軍と対峙するバリケードを作った。さらに舗装ブロックを壊し投石用の石とした。バスターミナルでは数千の市民が戒厳軍と真っ向から衝突する中、戒厳軍側の暴力も次第にエスカレートしていった。この日から特殊部隊は、銃剣を実際に使用し市民を切り裂いた。初めての発砲もあった。エンジンの切れた装甲車に市民の一団が近づいた時、ハッチが開き、高校3年生のキム・ヨンチャンがM16ライフルで撃たれた。
続く20日には、さらに最精鋭とされる第3空輸旅団が光州に投入された。ベトナム戦争にも派遣され、現地の住民を虐殺したこともある「選り抜き」の戦闘部隊だ。この日、デモには10万人以上が参加したとされる。当時の光州の人口は約73万人。地域の中心地であるため学生だけで11万人がいたとはいえ、その数の多さが分かる。
李氏はこの日に「二度目の飛躍」があったとする。午後7時に行われた車両デモが象徴している。200台余りのバスとタクシーが参加し、全南道庁前に迫った。結局は車両のほとんどは戒厳軍により破壊され、多数の運転手が負傷し逮捕されたが、自発的で組織的な動きを李氏は「民衆自らが歴史の前面に自身の生涯をなげうつ瞬間だった」と表現した。当時の自動車は、庶民にとっては貴重品である。これは既に戒厳軍と対峙していた市民にとって「光州市民すべてが闘っている」という確信を抱かせる出来事でもあった。20日午後9時の段階で、全南道庁前の錦南路では7万人の市民が集まり、空輸部隊に大きな圧力をかけていた。
だが、光州市民のこんな奮闘や戒厳軍の狼藉は、韓国の他の地域には全く伝わっていなかった。「報道指針」と呼ばれる厳しい報道規制のためだった。韓国の18日、19日のニュースに光州は取り上げられなかった。業を煮やした市民たちは公営放送KBS、MBCの光州支社を占拠し、火を放った。20日、『全南毎日新聞』の記者一同は辞表を白紙の新聞に掲載する。「私たちは見た。人が犬のように引きずられ死にゆく姿をしっかりと見た。しかし新聞にはただ一行も載せられなかった。これを恥じ私たちは筆を擱く」。
また20日には光州駅前で第3空輸旅団と市民が激突した。この場所で戒厳軍に初めての死者が出た。市民の勢いはすさまじく、数で劣る戒厳軍についに発砲命令が下ったのだった。光州駅前でM16ライフルの射撃により5人の市民が死亡したものの、市民はついに戒厳軍を追い返すことに成功した。戒厳軍にとって市民は完全に「殺害の対象」となっていた。(「中」へつづく)
※書名の邦訳表記および引用の翻訳は筆者による。
著者情報
ジャーナリスト
徐台教
ソ・テギョ
1978年、群馬県生まれの在日コリアン三世。小学校は朝鮮学校、中学校・高校は公立学校で学び、1999年からソウル在住。韓国の高麗大学東洋史学科を卒業後、人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年、韓国に「永住帰国」すると同時に独立。現在「コリア・フォーカス」編集長。主な取材テーマは、朝鮮半島の分断、南北関係、韓国政治など。Yahoo!ニュースや日本メディアへの寄稿・出演多数。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。2022年、「第七回鶴峰賞言論部門優秀賞」受賞。著書に『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』(集英社クリエイティブ)がある。