「光州事件」を超えて〜韓国民主化の中で40年生き続けた光州5.18を知る(中)
徐台教(ジャーナリスト)
「光州事件」を超えて〜韓国民主化の中で40年生き続けた光州5.18を知る(上)から続く

襲いかかる軍から逃れる光州市民(1980年5月20日)
(4)市民軍の結成
明くる(1980年5月)21日に戒厳軍は20師団を投入し陣容を厚く整えた。さらに市外電話を完全に遮断し、列車とバスの運行も止めるなど光州を孤立させようとした。全南道庁前で再び市民と戒厳軍が睨みあう中、午後1時頃に道庁屋上のスピーカーから「愛国歌(国歌)」が流れると同時に一斉に発砲が始まった。市民に照準を合わせた「射撃」だった。付近のビルの屋上からはスナイパーが市民の頭を狙った。ヘリからの機銃掃射もあった。妊婦が、女学生が、父親が、目の前で撃たれ次々に死んでいった。
一方で、市民は武装を始めた。自動車工場から組み立て済みの自動車と装甲車を奪った。さらに近郊の街である羅州(ナジュ)市、和順(ファスン)郡、霊岩(ヨンアム)郡、潭陽(タミャン)郡などを訪れ、光州の惨状を知らせると同時に、警察署や予備軍の倉庫にあるカービン銃や拳銃をはじめとする銃器5000丁余りと弾薬を手に入れた。現地の住民は協力を惜しまなかった。また、鉱業会社からはTNT火薬を大量に持ち帰った。武器は軍隊経験のある若者を中心に配られ、即席の部隊分けと共に市民軍が結成された。
この日の晩、最終的には30万人の市民が街に出たとされる。一方の戒厳軍は一斉に市外に撤退した。戒厳軍にとっては態勢を整え武装した市民を徹底的に攻撃するための下準備だった。午後7時半、戒厳司令官による「戒厳軍が自衛権を保有する」旨を明言する記者会見が開かれた。発表された警告文にはこう書かれていた。
「去る18日に発生した光州地域の乱動は治安維持をとても困難にしており、戒厳軍は暴力で国内の治安を乱す行為に対してはやむを得ず自衛のために必要な措置を取る権限を保有していることを警告する」(太字は原文ママ)
さらに同時期、実際に光州で戒厳軍により撒かれた警告文ビラにはこうあった。
「親愛なる市民の皆さん! これまでは皆さんの理性と愛国心に訴え、自主解散と秩序回復を期待してきました。しかし、銃器と弾薬と爆発物を奪取した暴徒たちの行状はますます過熱しており、こうした状況下ではやむを得ず掃蕩せずにいられなくなりました」(赤字は原文ママ)
戒厳軍は明らかに光州の市民を理性的な存在とせず、攻撃の対象とだけ見ていた。これに光州市民は怒った。李氏はこう振り返る。「市民は『暴徒』『暴動』と呼ばれることにとても抵抗感を持っていた。市民には自らの正当性についての確信があった」。その正当性の一つは、戒厳軍による過剰で暴力的な鎮圧行為への怒りだった。自衛する権利は市民側にある、という論理だ。
21日の午後から夜にかけて市外に移動した戒厳軍は、途中の民家に機関銃を乱射する一方、拘束した市民を連れ去るトラックの荷台に催涙弾を投げ込み、死ななくともよい人を無残に殺した。異常なまでの攻撃性は増すばかりだった。
5月21日からは光州の封鎖が本格化した。光州につながる主要な5つの道路では戒厳軍が検問を作り出入りを厳しく統制した。これは「光州での戒厳軍の強硬な弾圧の実態が明らかになることと、市民が武器を手に立ち上がる『蜂起』が全国に広まることを新軍部が恐れたため」(李氏)であった。住民に知らせず封鎖したため、道路を通過するだけのバスなどが無差別射撃の対象となり、多数の無辜の市民が犠牲となった。
(5)「絶対共同体」
理由はともあれ、5月21日に戒厳軍が郊外へと撤退したことは市民にとって勝利に他ならなかった。その勝利の原動力について、ソウル大学の崔丁云(チェ・ジョンウン)教授は光州5.18に関する著名な解説書の一つ『五月の社会科学』(1999年)の中で、「絶対共同体」という言葉を用いて説明している。
「絶対共同体は、軍隊のように誰かが闘争の目的のために個人を抑圧して作った組織ではなかった。それは暴力に対する恐怖と自身に対する羞恥を理性と勇気で克服し、命を賭けて闘う市民たちが出会い、互いに真の人間であることを、恐怖を克服した勇気と理性のある市民であることを認め、祝い、結びついた共同体だった」
自発的な市民意識への信頼がそこにあった。崔教授は、絶対共同体こそが「人間の尊厳性に疑惑がない自分自身を発見する変化の過程であり、解放だった」としている。当時、市民軍の中核は労働者階級だった。当事者たちにとっては、自分たちが一段下に見られていた普段の環境とは異なり、光州での「抗争」から生まれた新たな共同体は特別な意味を持っていた。彼らこそがもっとも熱心な市民軍だった。
道庁前の錦南路に集まった人々は民謡「アリラン」を歌い、「生き残るために闘う」「私たちの故郷は私たちの手で守る」と涙を流した。飲み屋で酌婦をする女性、売春を生業とする女性たち、白衣のチョゴリをまとった農民たちも共に参加した。血が足りなければ献血し、水が足りなければ水を配る。それぞれができること、すべきことを行った。10日間続いた「光州5.18」の間、民間の商店や銀行への略奪行為は起きなかった。暴行を受けた警察官もいなかった。
「事態が落ち着いたあと、ある警察幹部が警察署に戻り自分の机を調べると、そこにあった拳銃や紙幣などが手つかずのまま残っていた。捕虜となった空輸旅団の兵士も簡単な尋問の後、部隊に復帰させた。一部で米国人など外国人を捕虜にしようという声が出たが、すぐに周囲が止めた」(李氏)
一方で、空輸旅団の兵が惨殺されたり、派出所が火炎瓶で燃やされ、官公庁からの略奪が一部であったことも事実だ。だが当時、千人を超えた市民軍と数十万の光州市民は、戒厳軍が韓国の他地域の市民に向けて流すフェイクニュースのような「無差別的な暴徒」にならないよう、道徳性の維持に努めた。
この時期の光州を語る際に必ず登場するのが「おにぎり」だ。女性たちは集まっておにぎりを作り「ご苦労様。(闘いの)結果が悪かったらどうするの? 気をつけて」と声をかけながら市民軍をはじめ、市民たちに振る舞った。おにぎりを運んだ金だらいは光州5.18の象徴となった。「当時の光州には韓国が目指すべき直接民主主義の未来があった」と李氏は当時を振り返った。

光州5.18民主化運動最後の「決戦」が行われた全南道庁前で当時の様子を振り返る李在儀氏。(筆者撮影)
(6)市民軍の「敗北」と抗争の「完成」
5月22日から26日まで、戒厳軍は郊外にいたため、光州市内は一種の無政府状態となり市民による事態収拾策が盛んに執り行われた。市民代表、学生代表などによって収拾委員会が組織され、政府や戒厳軍と交渉にあたる一方で治安は維持された。自衛権の発動を公言した以上、戒厳軍と全斗煥の過渡政府がこのまま引き下がるはずもなかった。今後の対応をめぐって市民は「収拾派」と「抗争派」に分かれた。
当時、全南道庁の状況室(デモ指導部が集まる部屋)という最前線にいた李在儀氏はこう振り返る。「21日に戒厳軍が市外に撤収してすぐの22日に、収拾委員会が立ち上がった。全羅南道副知事がまとめ、元独立運動家など有名人士を加えてそれなりの陣容だった。後になって分かったが、これは副知事のアイデアで戒厳軍と妥協して事態を収拾しようというものだった。できすぎた話だった」。
最大の焦点は「武器の返納をどうするのか」ということだった。これは「闘いを止めるべきか、続けるべきか」とも置き換えられる。韓国最精鋭の特殊部隊が態勢を整えて再び襲いかかってくる。「勝つ」という未来図は考えられなかった。希望は韓国の他地域に光州の孤独な闘いが伝わり市民が立ち上がることと、韓国に直接的な影響力を持つ同盟国の米国がブレーキをかけてくれることだった。市民軍はそのための時間稼ぎに希望をかけた。
国内メディアが沈黙する中、海外メディアの特派員だけが命綱だった。映画『タクシー運転手』のモデルとなったドイツのヒンツペーター記者をはじめ、朝日新聞・毎日新聞など日本メディアも大いに頼りにされた。論争が続く中、光州の代表的な在野の運動家や宗教家、教授などは「若者の命を守るため」に、武装解除を呼びかけ銃器の回収を実行した。だが、抗争派は「光州市民が生き残るためには闘争の真実を守るしかない」と無抵抗のまま光州5.18を終わらせることを強く拒んだ。
抗争派の心理について、崔教授は前掲書『五月の社会科学』でこう説明する。
「個人の生命が人道主義的な価値であり、光州の市民たちを愛する人々(収拾派を指す)が守ろうとしたものだったという点を否定することはできない。だがこれは光州の市民たちを永遠に『暴徒』に押しやろうとする軍部の政治的な戦略と現実的に一致しており、抗争派の立場としては光州市民の『血を売り渡す』行為であった」
このまま引っ込んでは、5月18日からの戒厳軍の残虐行為により亡くなった人たちに申し訳が立たない、市民に非はない、ということだ。
全南道庁前では市民が集まり、決起集会や討論会を行った。こうした姿は海外メディアによってしっかりと記録された。中学生・高校生までが手にし、市民を不安がらせていた武器の回収も急いだ。25日まで4500丁余りの銃と、1000個以上の手榴弾が回収された。
その傍ら、長く民主化運動を続けてきた復学生や大学卒業生が市民軍に合流した。やはり当時を李在儀氏はこう振り返る。「23日午後、合流した人々を道庁前のYWCAビルに集め、これまでの状況を説明した。そこであくまで一連の抗争が『民主化運動のためである』ということを堅持する立場で合意ができた。24日に準備をし、25日に道庁を掌握した」。
著者情報
ジャーナリスト
徐台教
ソ・テギョ
1978年、群馬県生まれの在日コリアン三世。小学校は朝鮮学校、中学校・高校は公立学校で学び、1999年からソウル在住。韓国の高麗大学東洋史学科を卒業後、人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年、韓国に「永住帰国」すると同時に独立。現在「コリア・フォーカス」編集長。主な取材テーマは、朝鮮半島の分断、南北関係、韓国政治など。Yahoo!ニュースや日本メディアへの寄稿・出演多数。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。2022年、「第七回鶴峰賞言論部門優秀賞」受賞。著書に『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』(集英社クリエイティブ)がある。