妻たちと国家 〜入管法に翻弄される人々③前編
木村友祐(小説家)
まさに、いつまで待てばいいのか一切わからず、先が見えないことは、人の心をどんどん蝕んでいくことだろう。入管収容所に収容された人が、絶望のために自殺に走ったり、心身が衰弱するのも同じことである。収容されていなくてもナヴィーンさんは苦しむが、一緒にいるなおみさんも同じように苦しめられているのだった。
なぜそんな苦しみを与えるのか。なおみさんに聞くと、「それはやっぱり、送還したいから」と答えた。ぼくはうなずく。入管は無自覚に先の見えない苦しみを与えているのではなく、精神的に苦しませて帰国させることを目的としてやっているのだろう。それって陰険を超えて非道なことではないのか。
「それにしても、こういう人には在留特別許可は出すけど、こういう人には出せないんですよとか、そのくらい公表してもいいんじゃないですか? 目安も何もなしに、何もわからず待ってるっていうのは、ほんとにおかしいですし、非正規滞在の外国人をとにかく追い出したい入管が難民認定の審査をしたり、法務大臣の裁量だけで在留特別許可を出す・出さないを決めるというやり方もおかしい」
「結婚して5年ぐらいたったときに、ちょうど1回目の難民認定の申請が不認定になって、在留特別許可も出ないという結果になったんですね。その結果が出た後、夫がうつ病になってしまって。それまでは私たちもなんとか待っていようと思っていたんですけど、うつ病になった夫を見て『これはもうまずいな、裁判をやらないとダメだな』と思いました。入管側からは司法を通そうという提案は当然してこないわけですから、私たちが司法を通して、裁判官に、入管が正しいのか、私たちが正しいのかを判断してもらおうと」
ナヴィーンさんはうつ病を発症し、自殺未遂を数回起こした。1度目は自傷行為の最中だったのをなおみさんと母が見つけた。血を流しているナヴィーンさんをなおみさんが止めようとするとかえって高ぶり、なおみさんにも危害が及びそうになる。なおみさんの母が間に入り、どうにかナヴィーンさんを落ちつかせた。2度目はフラフラと裸足のまま自転車で出て行き、車道の真ん中を走る危険な状態だったのを、たまたま見かけた次男が心配になってついて行ったので事なきを得た。
それらのことがあったため、金槌や庖丁やロープはナヴィーンさんの目が届かないところに隠さざるをえなかった。また、仮放免の更新手続きで品川入管に向かうために2人で電車のホームに立っているときも、なおみさんはつねにナヴィーンさんの手を握って離さないようにしている。
月に2回クリニックに通い、強い薬を何種類も飲んでいる。それで落ちついたかといえば、波があるという。
「調子がいいときは、飼育している熱帯魚の世話をして、魚の赤ちゃんを育てたり、水槽に入れる水草を増やしたりしていて、そういうのが夫は好きなんですけど、調子が悪いともうほんとに寝たきりで、部屋に引きこもって、トイレには行くけどお風呂も入らない、ご飯も食べないで、ずっと寝ている状態になってしまいます」
「だから夫に話すときも、すごく私も気を使います。これを言ったら怒ったり、傷ついたりしちゃうんじゃないかなとか思うようになってしまって。ちょっとしたことでイライラして、怒鳴ったりすることもあるので。前はそんな感じじゃなくて、なんでも好きなように話ができたのに、その病気になってから、やっぱり私も気を使うようになったんですね。穏やかで優しい彼が、調子が悪いとまったく別人のようになってしまうので」
心は手でたしかめられるモノではない。だからどこかで軽んじられている側面があるが、心が壊れると生活ができなくなってしまう。ナヴィーンさんがそうなったのは自分たちの責任ではないと入管側は言うだろうが、果たしてそうなのか。(→後編はこちら)
著者情報
小説家
木村友祐
きむら ゆうすけ
1970年、青森県八戸市生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。2009年『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。著書に『海猫ツリーハウス』(2010年、集英社)『聖地Cs』(2014年、新潮社)『イサの氾濫』(2016年、未来社)『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(2016年、新潮社)『幸福な水夫』(2017年、未来社)『幼な子の聖戦』(2020年、集英社/第162回芥川賞候補)温又柔氏との往復書簡『私とあなたのあいだ―いま、この国で生きるということ』(2020年、明石書店)がある。