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地図を読み解けば世界が広がる

地図のつくり手から聞いた地図を愉しむ法

山岡光治(元・国土地理院中部地方測量部長)

(構成・文/村山加津枝)

「紙の地図? スマホでググればすぐ地図が出てくるし、いらない」。そんな声が聞かれる一方で、本屋に行くと様々な“紙の”地図が並んでいる。それだけ需要があるということだ。「地図の本の種類が多いだけでなく、観光地などでも様々な地図が無料で配られているのは、国土地理院が地形図を無償提供している恩恵です」と語るのは、その国土地理院で長く地図づくりに携わってきた山岡光治氏。地図の達人ともいえる山岡氏に、地図を愉しむ極意をたずねてみた。

そもそも地図とは?

 地図とは、簡単にいってしまえば、地球の図、すなわち地球のすがたを紙で、いまではプレート、ディスプレーなどにあらわしたものです。インターネットで簡単に地図が見られるようになっても、様々な地図の本がつくられ、またある時まではプリントアウトしている人が多かったのは、紙の地図が目的地周辺を概観するのに適しているなど、実用的であり、見やすいという側面をあらわしていると思います。
 さて、地図を意味する言葉に「地形図」もあります。
 地形図とは、一定の規則による基準点三角点水準点など)に基づいて測量した正確な三次元情報であり、多目的に使用可能な位置情報のかたまりともいえます。


 また、単に「地図」という場合は、同じ地球のすがたでも、デフォルメした絵地図や目的を絞ったロードマップなども含みます。さらには、地球以外の天体、たとえば「月の地図」や「火星の地図」、あるいは“地”とは関係のない「脳の地図」や「からだの地図」など多種多様です。
 今回は、地形図を中心に話を進めていきます。
 

伊能忠敬から始まった地形図

 「地図をつくった人」と問われてすぐ浮かぶのは伊能忠敬(1745~1818)ではないでしょうか。忠敬は、「わんからしん」(方位磁石を使用した、北から目標方向の角度を測る機器。「小方位盤」とも呼ぶ)、「間棹・間縄」(ものさし)などを用い、測量を行いました。
 完成した「伊能図」は、大図214図葉、中図8図葉、小図3図葉です。ところが、江戸幕府に上程し、明治政府に引き継がれたものの、火災で灰となってしまいます。その後、伊能家にあった「控図」が献納されましたが、これも保管していた東京大学付属図書館が関東大震災によって焼失したことで、またも灰と化しました。しかし、各地に写しが残っていたことで成果が後世に受け継がれ、目にすることができます。
 地図は、地球のすがたをあらわしたものですから、当然、地球が丸いことを意識して測量しなければなりません。忠敬もそれをめざしていましたが、まだまだ不完全なものでした。地球の丸さを反映した近代的な官製地形図への着手は、明治になってからのことです。
 71年(明治4)には兵部省陸軍参謀局に間諜隊が設置され、地理調査と地図編集を本格的に開始し、イギリス人技師の指導のもと、東京府下に13点の三角点を設置しました。84年(明治17)から、測量は陸軍参謀本部測量局に引き継がれます。
 三角点などの標石は、大阪城築城にも使われた、良質で劣化しにくい香川県小豆島の花崗(かこう)岩を使用しています。それは、旧日本領だった海の向こうの樺太や台湾まで運搬されて使われました。当時は石工(いしく)が標石の側面に文字を彫っていたため、それぞれ違う書体だったり、「点」が旧字の「點」となっていたりしています。地図好きの中には、こうした変わった標石を探し訪ねることを愉しむ人もいます。
 第二次世界大戦後、1945年に内務省の付属機関として地理調査所が発足、60年には国土地理院と名称変更されます(2015年現在は、国土交通省の特別の機関)。国土地理院になった現在も、小豆島の花崗岩は全国で使われています。しかし、その一部は金属製の標識に変わり、人工衛星を使用したGPS測量に変わったことで、役割を終えようとしています。
 いずれにしても、地図の歴史は、この小さな「石」を基にして、いかに地球のすがたを正確に写し取るかということです。
 

時代で変遷する地図記号

 測量を土台として地図作成が行われます。
 一般の方々が地図の周辺で最も身近に感じているのは、小学校で習った地図記号でしょう。
 小学校の学習指導要領を見ると「3・4学年の社会科」で地図が登場し、地図記号をおぼえることから地図教育を始める小学校が多いと聞きます。私は、とっかかりが「地図を読む」ことではなくて、「地図記号をおぼえる」であることに少々疑問をもっています。
 それはそれとして、幕末から明治中期までの日本の測量地図は、フランス、イギリスを主とする欧州技術の摂取につとめました。はじめのうちは地図記号にブドウ畑や氷河などもあって、外国のものをそのまま使用していました。しかしすぐに、米蔵や桑畑といった日本独自のものができました。
 明治中期になると、ドイツの技術を模範とするようになります。範とした国の変化は兵制の変遷と連動していたのです。それは地形図そのものの表現方法にも影響し、地形図が色鮮やかに彩色されていたフランス式、単色ではあるものの緻密さを感じさせるドイツ式、合理性を追求したアメリカ式と変化していきました。
 明治中期以降、ドイツの技術に基づく測量地図作成の時代が長く続きます。第二次世界大戦後は、アメリカの技術の影響を受け、地図記号は合理的でだれでもが容易に描けるものへと変化しました。これが如実に表れているのが、湯壺(ゆつぼ)に湯気がゆれる日本独自の温泉の記号です。なぜか何度もつくり直されています。筆と墨で描かれている古地図のそれは大変個性的です。


 地図記号は、誰もが一目で理解できることが理想です。地図記号がクイズになってはいけません。たとえば、新しくできた地図記号は絵のようなデザインで分かりやすくなっています。


 

地図記号に隠された軍事的な意味とは?

 古地図の地図記号で多様な表現となっているのが神社です。モデルである鳥居そのものがバラエティに富んでいるのが原因のようです。初詣などのときに、ここで紹介した地図記号と目の前の鳥居とを対比してみるといいでしょう。


 ちなみに寺院は、ほぼ「卍」(まんじ)が使われています。
 地図を見たとき、神社やお寺の記号がやたらに多いと感じたことはありませんか? 現地に行って見てみると、住職のいないさびれたお寺だったり、敷地のわりには小さな祠(ほこら)が建つだけの神社だったりで、不思議な気さえします。
 これは、地図のもとが、陸軍参謀本部が製作した軍用地図であったことに由来します。神社仏閣は兵隊の宿営地や休憩の場所に適していたことから、詳しく掲載する方針をとっていたのです。他にも、道路や橋はもちろんのこと、田や湿地、崖の記号なども、重装備の戦車などが通れるか、歩兵が通過できるか、登れるかなどを知ることができる内容になっていました。
 戦時中には、地図上で軍の施設を白抜き、あるいは公園などにカモフラージュしていました。何かに書き改めるならまだしも、白抜きだとかえって目立ち、重要施設があることが敵国に容易にわかり、間抜けな処置に思われます。一般図、つまり平時のための地図になった今は、米軍や自衛隊の基地も詳細に描かれています。地図に秘密はありません。
 現在の地図記号は、たとえば大市街地の街歩きなどでは、小さな交番やビルの中の郵便局は発見すら難しくて、あまり役に立ちません。その意味でも、地図教育のはじめは、地図記号であって もいいのですが、ほんとうに必要なのは「地図の読み方」なのです。
 やはり知らない場所にいった際、自分が今どこにいるのか、地図とどう対応させてどう歩くのか、そうした判断ができることが重要となります。そこでは、これまで述べた地図記号の中の建物記号だけでなく、道路や鉄道、建物、河川といった地図記号についての知識が必要です。それらを頼りに、実際に地図を片手に歩くなどの訓練も必要になります。さらにステップアップして、実際にその場所に行かなくても、地形や景色を想像できるようになれば、地図の愉しみも広がります。
 

街歩きにおすすめなのは1万分の1縮尺地図

著者情報

元・国土地理院中部地方測量部長

山岡光治

やまおか みつはる

1945年神奈川県横須賀市生まれ。元国土地理院中部地方測量部長。63年道立美唄工業高校卒業後、国土地理院に入所。2001年同院を退職し、ゼンリンに入社。05年退社後も、執筆、講演、街歩きなどを通し、地図の楽しみ方を伝える活動を続けている。主な著書に『地図に訊け!』(ちくま新書、2007年)、『地図を楽しもう』(岩波ジュニア新書、2008年)、『地図をつくった男たち』(原書房、2012年)、『地形図を読む技術』(サイエンス・アイ新書、2013年)、『地図はどのようにして作られるのか』(ベレ出版、2013年)ほか、多数。(2015.11)

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