ギャンブルの文化人類学
植島啓司(京都造形芸術大学教授、宗教人類学者)
それでも、世界中に目を向けると、まだギャンブルができるだけいいと言える状況が繰り広げられている。ギャンブルそのものを厳しく禁じている国もたくさんある。イスラム文化圏はまさにそうだし、共産圏でもほとんど禁止されている。こういう国々では、庶民のささやかな願いでもある富くじ、すなわち、宝くじなども厳しく禁止されることになる。
日本でも、ギャンブル依存症患者の数を成人人口の4.8%に当たる536万人とする報告もある。それだと、日本人のかなりの部分がギャンブルに熱中していることになる計算だが、もちろんそんなことはない。しかし、中でもパチンコやスロット(パチスロ)の存在は特殊で、いつでも誰でもアクセスできるというように、日常の中にギャンブルが存在しているというのはやはり大きな問題かもしれない。
それでも、庶民のささやかな遊びとして、パチンコやパチスロは、店によっては90%以上と還元率が高く設定されており、競輪・競馬・オートレースなど公営競技の約75%や、宝くじの約45%程度に比べたら、かなりギャンブルの要素は低いとも言えるだろう。それがささやかな喜びである分には、恐らくそれほど多くの苦情が寄せられることもなかったのではなかろうか。
「『すべての善きこと』には『依存』性がある」とは、作家で自身もギャンブラーの森巣博の言だが(注4:森巣博『カジノ解体新書』扶桑社、2015年)、そこまでは言わないものの、依存症対策さえしっかりすれば、多くの人が指摘するようにそんなに「有害」であるとは思えない。ぼくはパチンコでは遊ばないが、「人の喜びに口出しするな」というスタンスを守っていきたい。
ただし、ここにカジノが登場すると、おそらく控除率は1%程度で、99%の還元率となるはずだ。控除率25%の競馬だったら、1万円持って出かけても最初から4分の1の2500円持っていかれる計算だが、カジノならばそれがわずか100円ということになる。
射幸性が高いか低いかは別として、カジノの存在はギャンブル依存症患者の数を逆にいくらか減らすことになるかもしれない。最も依存に陥りやすいのは「マシン系」であって、前述のごとくラスベガスやマカオのようにカードゲームを主体とするならば、パチンコやパチスロからカジノへの流れは、むしろ「依存症」の人々の負担を軽減してくれるようにも思われる。
ぼくはお祭りのときの庶民のささやかな遊びが好きだった。富くじのようなもの、それらにはルーレットのようなものや、何本もある紐を引っ張ると向こう側にある景品が当たるというものや、輪投げをして輪の中に入ると、その人形がもらえるというようなものまであって、全て大好きだった。バリ島にはボラ・アディルというルーレットみたいなゲームやタジェン(闘鶏)などがあり、お寺の祭日には大人から子どもまでが小銭を賭けて楽しんでいる。それは一般庶民みんなの喜びなのである。
そういうゲームは世界中に存在しているが、誰が教えたわけでもないのに、予期せぬ幸運が転がり込んでくるかもしれないという夢のような高揚感は、大人のみならず、小さな子どもたちをも夢中にさせるのである。そうした生きる喜びを安易に奪ってはならないと思っている。それは人々が心に抱く希望であり、祈りであり、夢なのだから。
著者情報
京都造形芸術大学教授、宗教人類学者
植島啓司
うえしまけいじ
1947年東京生まれ。東京大学大学院博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらの許で研究を続ける。関西大学教授、人間総合科学大学教授などを歴任。性愛、聖地、クマリなどの研究で知られるが、世界中のカジノを巡るギャンブル狂でもある。主著に『競馬の快楽』(講談社現代新書、1994年)、『快楽は悪か』(朝日新聞社、96年)、「偶然のチカラ」(集英社新書、2007年)、「賭ける魂」(講談社現代新書、08年)、『日本の聖地ベスト100』(集英社新書、12年)、『処女神 – 少女が神になるとき』(集英社、14年)、『きみと地球を幸せにする方法』(集英社インターナショナル、15年)など多数。