『鬼滅の刃』を読む~この残酷な世界の中で誰もが鬼にならずにすむように
杉田俊介(批評家)
義勇は心の中で炭治郎に「怒れ」と伝えようとします。お前が打ちのめされているのはわかっている、つらいだろう、叫び出したいだろう、と。これは物語を先取りする言い方になってしまうかもしれませんが、おそらくここで義勇が言う「怒れ」とは、目の前の義勇や、家族を殺した鬼に対して怒れ、というのみならず、身近な人間がある日突然鬼になり、無力に殺したり殺されたりしていくこの世界のシステムそのものに対して「怒れ」ということなのでしょう。この理不尽な世界のシステムそのものに抵抗するんだ、と。それが先輩である義勇からの炭治郎少年に対する叱咤激励のメッセージなのではないでしょうか。
ただしここで重要なのは、この日、炭治郎と禰豆子に出会うまでは、義勇自身がそうした世界のシステムに完全に組み込まれていたままだった、ということでしょう。鬼殺隊の最高の地位である「柱」にまでなりましたが、義勇はこの時点ではまだ、鬼から人間に戻るとか、鬼になった家族を助けられるとか、世界のシステムの外に脱出できるという可能性を信じられていませんでした。
それならば、誰も鬼にならずにすむ世界とはどんなものか。誰もが生まれながらに取り立てられることなく、神や仏を呪わずにすむような世界とは。これは私たちの現代社会にとっても、必要な問いかもしれません。重要なのは、私たちもまた様々な意味で「鬼」になりかねない、ということです。では、人間がどうしようもなく鬼になっていくシステムと戦うとはどういうことか。今回、あらためて第1巻を読み直してみて、じつは『鬼滅の刃』の第1話の時点で、すでに、そういうところまで問いはのびていたのだ、と気づきました。
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第2話では、義勇に指示され、炭治郎と禰豆子は、狭霧山の麓の鱗滝左近次〈うろこだき さこんじ〉という老人のところへ向かうことになります。道中、夜の山で炭治郎は(禰豆子以外の)鬼とさっそく初対決することになります。鬼は人を喰うこと、首を切っても太陽の光を浴びないと死なないことなどが判明し、師匠キャラとなる鱗滝さんも登場します
ところで『鬼滅の刃』には、基本的に空気を読まず他人の話をあんまり聴かない人(いわゆる「コミュ障」)が多く登場します。これは我妻善逸〈あがつま ぜんいつ〉が登場したあとにドライブしていくギャグパートだけではなく、他人とのすれ違いや騒々しさ、それがこの世界では当たり前であるかのようで、これもまた素晴らしいと思います。作品全体を通して、空気を読まず、他人の話を聞かなくても別にいいんだよ、というメッセージを伝えてくれているかのようです。
よく読めば、第1話は終始悲痛な印象ですが(作中の印象的な「コミュ障」の一人である義勇さんもまっとうにコミュニケーションしているように見えます)、第2話の冒頭になると、早くも炭治郎が「コミュ障」ぶりを発揮していて、他人の話を全然聞かず、「頭の固い子供だな」と農家のおじさんからツッコミを入れられています。
もう少し先の第8話では、鬼殺隊最終選別で生き残った5人がこの作品の主人公格になるのですけれども、全員が「コミュ障」っぽくて、人の話をあまり聞いていません。今思えば、これはとても『鬼滅の刃』らしくて、おかしみがあります。蝶と戯れていたり、ぶつぶつ俺はすぐ死ぬと呟き続けたり、子どもをいきなり殴ったり、子どもを殴った男の腕をいきなり折ったり……もう一人はすでにその場にすらいないのですから! そして次の第9話では、輪をかけて人の話を聞かない鋼鐵塚〈はがねづか〉さんが登場します。この辺りから、『鬼滅』らしいユーモラスなキャラクターや台詞回しがどんどん増えてきます。
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話を戻しますと、それにしても義勇さんの第1話の「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」といい、鱗滝さんの第3話の「判断が遅い」といい(どちらも『鬼滅』ファンの間では有名な名台詞です)、ほんとうに『鬼滅の刃』の世界の大人たちは、子どもたちに対して過酷だな、と思います。もちろんそれは、優しさゆえの過酷さなのですけれども。
作者・吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)は、この世界は残酷で過酷なものだ、という感覚のもとに作品を描いているように思えます。人気雑誌の初連載の作品で、第3話~第5話がいきなり修行パートであるのは、やっぱり並大抵の胆力じゃできないことだと思います。普通、修行パートは人気がなく、アンケートで上位を取りにくいと言われています。今考えると、信じがたいことです。
修行パートには、次のような台詞があります。どんなに毎日必死に努力し続けてもそれ以上前に進めないことがある。どうすればいいのだろう。それでも「死ぬほど鍛える 結局それ以外にできることないと思うよ」。これもまた、『鬼滅の刃』の基本的な世界観の一つです。ある種の努力主義です。才能や実力が大事なのはもちろんですが、人間の才能や実力には限界があるのであって、どんなときにも努力が必要なんだ、と。
とすると、『鬼滅の刃』型の努力主義は、自己啓発的な自助論や、新自由主義者たちの言う自己責任論や、家父長制度的な男らしさに紐づけられた能力主義(メリトクラシー)等々とおんなじものなのでしょうか、といえば、やはりそれは単純には同一視はできないものと思われます(鱗滝さんに育てられ、すでに殺された錆兎〈さびと〉の「男なら~」というセリフの「男らしさ」規範や、あるいは炭治郎の「長男だから~」という自己啓発的な自己鼓舞に対する批判をネットなどでは時々見かけますが、さすがにそれはどうでしょうか)。
たとえば自己啓発的な思想のロジックでは、一般的に「努力すれば人は必ず勝てる、成功できる」とされます。というのは、「現実的に負けたなら、それは本人の努力が足りなかったから」と見なされるからです。これは自己責任論のトリックでもありますね。「負けたなら、本人の努力が足りなかった」というのは、絶対に外れない予言のようなものです。
しかしこれに対し、『鬼滅の刃』の努力主義は、自己啓発とは真逆であって、むしろ「努力はどれだけしても足りないんだよ」(第7話)ということなのです。人間の努力はつねに足りない。足りないからこそ、にもかかわらず、私たちは努力し続けるしかない。そのときにようやく、私たちは何かに勝てるかもしれない。そのようなものなのです。
錆兎の「どんな苦しみにも黙って耐えろ お前が男なら 男に生まれたなら」「男なら 男に生まれたなら 進む以外の道などない!!」云々というセリフもまた、どう考えても、あの素晴らしい「泣きそうな嬉しそうな安心したような笑顔」のコマ(それはとうてい「男らしい男」の顔ではありません)の前フリであるのに、しばしば台詞だけ切り取って叩かれることがあるのは、やはり解せない、という気がします。
さて、ここまで、『鬼滅の刃』の第1巻を読み直してみました。ごく早い段階から、『鬼滅の刃』を象徴するような世界観、あるいはこの世界のシステムなどがすでに構想されていたことに気づき、読み直してみて驚かされます。
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最後にもう一点付け加えておきます。第1巻の最後の方から第2巻の最初の方、つまり修行パートから最終選別パートの辺りで、ひとまず、『鬼滅の刃』の死生観・宗教観のようなものが示されています。
『鬼滅の刃』の死生観・宗教観では、幽霊が実在しています。修行パートからすでに、狐の面(厄除の面)をつけた錆兎と真菰〈まこも〉という少年少女の幽霊が出てきます。
そして人は死んだら、その「魂」は家族や親しい人たちの元へと還るようです。またその後も作中では度々、生死の境目に陥った人間の意識(?)に親しい死者の魂があらわれて、助けてくれます。これはその道の専門家の人々の解釈を待ちたいのですが、ある種の日本式の仏教+祖霊信仰のような宗教観が前提にあるように思われます。こうした宗教観のようなものが、あまり救いのない『鬼滅の刃』の世界の中では、救いのようなものを与えてくれることにもなります。
それに対し、鬼はどうやら――様々なパターンがあるので一概には言えないのですが――家族や親しかった人の記憶すらも忘れてしまうようなのです。これはきわめて残酷な意味をもちます。そしてそれが人間と鬼の大きな違いとなっています。これらのことは、すでに、第6話~第8話の最終選別パートで描かれているのです。
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炭治郎は、藤襲山の最終選別で通称「手鬼」を倒します。そこで炭治郎は、鬼の中に悲しみの匂いを感じます。鬼は悲しく虚しい生き物であるということ。これは『鬼滅の刃』の重要なテーマになっていきます。
鬼が悲しく虚しいのは、人間だった頃の一番大事な人たちの記憶さえ忘れており、何一つ思い出せないからです。
手鬼は、大好きだった兄ちゃんのことを、鬼になった自分が咬み殺してしまったという事実を覚えていません。それどころか「兄ちゃん」が誰だったかすら、忘れてしまう。炭治郎はそこに鬼という生き物の根本的な悲しみがある、と悲しみの匂いで直観しています。死にゆく鬼の手に炭治郎が手を重ね、最後に、手鬼は兄ちゃんの手の温もりを思い出す。自分の最大の罪を思い出すことが鬼の救済になっていく、という悲しい逆説がここにはあります(それはのちに累〈るい〉や猗窩座〈あかざ〉との対決においても繰り返されるでしょう)。
著者情報
批評家
杉田俊介
すぎた しゅんすけ
1975年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。元障害者ヘルパー。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『橋川文三とその浪漫』(河出書房新社)、『男がつらい!』(ワニブックス「PLUS」新書)などがある。