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『鬼滅の刃』を読む(3)~「弱さ」について。そして、組織としての鬼殺隊

杉田俊介(批評家)

 そして炭治郎のこうした倫理観は、煉獄のような強い者の責務や使命感とも微妙に異なるようです。炭治郎は、あくまでもまだ弱い者として、自分の弱さゆえに他者に守られた者として、猗窩座に対してそのことを主張しているのです。炭治郎は、完璧な人間ではありません。あくまでも弱さを抱きとめたまま、今は以前よりも少しは強くなれた人として、自然の摂理について語っているのです。

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 炭治郎は「長男」というアイデンティティを強調しますが、それは決して家父長制的な強権の持ち主としての長男ではなく、あくまでもケアラー(ケアする者)としての長男性を指しています。実際に炭治郎は、鬼と化した妹を手編みの籠や箱の中に入れてずっと背負っていくのですが、これは、赤子を背負った親の姿や、介護者の姿などを自然に想起させます。そして炭治郎は、妹のみならず、我妻善逸〈あがつま ぜんいつ〉や伊之助などの仲間のこともきょうだいのように気遣い続けるのです。

 もちろん、ケアの問題を考えるときは、男女のジェンダー不公正を前提にしなければなりません。たとえばケイト・マンは、『ひれふせ、女たち――ミソジニーの論理』(小川芳範訳、慶應義塾大学出版会、2019年)で、ミソジニー(女性憎悪、女性嫌悪)とは、必ずしも女性をモノ扱いすることではなく、女性は男性に対し何かを与える者(giver)でなければならない、という思い込みとして表れる、と論じています。女性はつねに男性に対し道徳的=ケア的に援助・気遣いするべきである、と。女性は男性を気遣い、ケアし、尊敬し、称賛し、支え続けねばならない……。

 では、「イクメン」という言葉に象徴されるように、男性たちも家事・育児・介護などのケアにコミットすれば、ケアをめぐる構造的な不公正は解消されるのでしょうか。ことはそう簡単ではありません。

 『戦う姫、働く少女』等の著作で知られる河野真太郎は、炭治郎の男性性のあり方は、1970年代以降のメンズリブ(男性解放運動)の流れを受けた「助力者としての男性」の系譜に位置づけられるものである、と論じています。
 それは旧来の家父長制的な「男らしさ」とは別物ですが、新たな「男性性」の権威を回復するものでもあるかもしれない。「助力者としての男性」は現実においては意識の高いミドルクラス的でリベラルな男性たちが獲得しやすいものであり、いわば「勝ち組男性のフェミニズム」を前提としているかもしれない、と(「大ヒット『鬼滅の刃』の隠れた凄まじさ…「男らしさの描き方」の新しさに注目せよ 「長男だから我慢できた」の意味」)。

 この指摘は重要です。しかし、炭治郎のケアラーとしてのあり方は、もう少しラディカルな次元に突き抜けているように思えます。

 ケア論的な正義のラディカリズムとは、もちろん、近代的な家父長制を維持するための性役割分業を主張するものではありません。「母親には育児や介護の責任がある」とか「女性にはケア道徳が必要だ」という話ではありません。男性が「助力者=ケアラー」というポジションをうまく勝ち取って、他の男性に対してマウンティングするものでもありません。  
 たとえば哲学者のハンス・ヨナスは、「赤ん坊が息をしているだけで、否応なく『世話をせよ』という一つの『べし』が周囲に向けられる」と述べています(『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み』、加藤尚武監訳、東信堂、2000年)。最もかき消され易く、沈黙に近く、弱い声。それこそが倫理的な「命令」である、と。むしろ、老若男女を問わず、あるいは健常者と障害者の違いを問わず、普遍的にケア=贈与なしでは生きられない存在として生まれてきた自分たちを見つめ直さねばならない、ということです。

 猗窩座だって、かつては赤ん坊だったのです。猗窩座は他人の弱さが許せません。しかしそれは、そもそも、自分の弱さが許せないからなのです。前回、『鬼滅の刃』において、悪とは自分に嘘をつくことであり、自己欺瞞である、と述べました。猗窩座の強烈な弱者嫌悪は、自己欺瞞的な自己嫌悪そのものです。

 しかしここで私たちは思い出すべきでしょう。人間だった頃の猗窩座こそが、かつて、他の誰よりも利他的なケアラーとして生きようとしていた、ということを。少年時代の猗窩座は、病気の父親を懸命に介護し、また師範の娘である恋雪〈こゆき〉のことも熱心にケアしました。猗窩座は「長男」としての炭治郎以上にケアラー的な倫理の持ち主だったのです。

 猗窩座は、病気の人間の存在はべつに迷惑ではないし、病気の人間が謝る必要すらもない、と考えています。病気の人間は何か悪いことをしたわけではないし、そもそも一番苦しんでいるのは本人なのだから。病で苦しむ人間が周りに謝らざるをえないような状況を強いられてしまうこと、猗窩座はむしろそこに憤っているのです(第154話)。『鬼滅の刃』の鬼たちの中で、炭治郎の「優しさ」に匹敵する資質を持っていたのは、猗窩座ではなかったでしょうか。

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 ここまで、『鬼滅の刃』の根幹にあるだろう弱さと利他性の思想を論じてきました。重要なのは、それが『鬼滅の刃』の組織論(集団性のあり方)にも関わっている、という点です。あの「自然の摂理」を組織論的な分業体制に組み込んでいたのが鬼殺隊だった、と私は思います。

 先ほども参照した河野論文では、次のようにも指摘されています。「鬼殺隊はアナーキーな組織ではなくソフトな権力=大人たる『お館様』によって統率されているのだ。そしてそのお館様の最大の能力は、「新たな男性性」の重要な性質であるコミュ力、コミュニケーション能力なのである。(略)コミュ力はファシズム的リーダーの重要な資質でもあり、鬼殺隊はファシズム的組織にも不気味に近づく」(同)。

 しかし、これはどうでしょうか。確かにお館様(産屋敷耀哉 うぶやしき かがや)は「カリスマ性があり大衆を動かす力を持つ者」とされます(第47話)。そして鬼殺隊の剣士たちを――年上の剣士たちを含めて――「子」と呼びます。つまり代理的な「父」の役割を担っています。

 そもそもお館様は、独裁的あるいは強権的なポジションに立ってはいません。合会議(厳密には会議が始まる前の、炭治郎たちの処遇を決める話し合い)の場面でも、柱たちは、決してお館様の言葉や判断を絶対視せずに、それぞれに反論したり拒絶したりしています。それは対話や合議制というよりも、てんでんばらばらに自分の考えを主張するようなカオスな印象すら与えます。

 お館様は、最大の敵・鬼舞辻無惨〈きぶつじ むざん:「つじ」の字は1点しんにょう〉と対面したとき、「私を殺した所で鬼殺隊は痛くも痒くもない/私自身はそれ程重要じゃないんだ」と言います(第137話)。実際に、お館様は自分の命を囮(おとり)にして、無惨を罠に陥れています。お館様は唯一無二のカリスマではなく、彼自身もまた組織全体の一部分にすぎないのです。有機体のような全体主義(部分は全体のためにある)とも少し違います。重要なのはお館様が「私自身はそれ程重要でないと言ったが…/私の死が無意味なわけではない」とも述べていることです。鬼殺隊の剣士たち、特に柱の剣士たちは、お館様を個人として慕っており、彼が死ねば個々人の士気が上がるのは間違いないからです。

 かつて不死川実弥〈しなずがわ さねみ〉風柱になったばかりの頃、実弥はお館様に「自分の手を汚さず/命の危機もなく/一段高い所から涼しい顔で指図だけするような奴」、という不満をぶつけたことがあります。これに対し耀哉は、「ごめんね」と率直に謝ります。自分もまた君たちのように強い剣士になりたかったが、病弱で剣が持てなかった。でも自分もまた捨て駒にすぎないのであり、「私は偉くも何ともない」「皆が善意でそれその如く扱ってくれているだけなんだ/嫌だったら同じようにしなくていいんだよ」(第168話)。実際にお館様・産屋敷耀哉が死んだあとは、わずか八歳の息子の輝利哉〈きりや〉が新しく鬼殺隊のリーダーになります。

著者情報

批評家

杉田俊介

すぎた しゅんすけ

1975年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。元障害者ヘルパー。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『橋川文三とその浪漫』(河出書房新社)、『男がつらい!』(ワニブックス「PLUS」新書)などがある。

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