第6回 小説と映画の特異な関係
樫原辰郎(映画監督/脚本家/評論家)
小説と映画は違うものだということを、誰よりもよくわかっていたのがサスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックだ。彼の代表作である『裏窓』はウィリアム・アイリッシュの短編『裏窓』を映画化したものであり、『鳥』はダフネ・デュ・モーリアの短編『鳥』が原作である。『裏窓』も『鳥』も原作だけを読むと、短編として上手くまとまっており、2時間ほどの映画になるとは思えない。ヒッチコックはおそらく、腕の良い脚本家たちと相談しながら(『鳥』の脚本家はエヴァン・ハンター、本名エド・マクベインだ。そう、『87分署シリーズ』で知られる作家である)原作の短編小説を、あくまで素材として扱い、2時間の映画に再構築したのである。

『鳥』撮影時のアルフレッド・ヒッチコック(写真:ALBUM/アフロ)
ところでヒッチコックは『ロープ』や『ダイヤルMを廻せ!』など舞台劇の映画化も得意とした。演劇、小説、映画はどれも物語を体験するためのメディアで、演劇と映画はどちらも視覚芸術だからよく似ているのだが、決定的に違うところがあって、演劇は容易に場面転換ができないのだ。大がかりな舞台装置を作って、観客の目を楽しませることはできるけれども、映画のように秒単位で場面が変わったりするようなことは演劇では不可能である。映画は、フィルムの断片をつなぎ合わせて作られるから、いくらでも場面転換が可能になる。たとえば『スター・ウォーズep6ジェダイの帰還』のクライマックスは、父であるダースベイダーに会いに行くルークのパートと、ミレニアムファルコンに乗ったランド・カルリジアンたちのパート、そして森の中でイウォーク族と共に帝国軍と戦うハン・ソロたちのパート。3つのシークエンスが同時に進行する。頻繁に場面が変わるのだけれども、観客はちゃんとそれについていける。こういった場面転換は現代の日本の漫画でも頻繁に行われるのだが、我々はそういう語り口に慣れているので、違和感を感じることなく頻繁な場面転換で語られる物語を楽しめるわけです。近年の例でいうとやはり『鬼滅の刃』原作のクライマックス、無限城編では4つのシークエンスがほぼ同時進行で進みながら、過去の回想まで入っているのだが、別にわかりにくくはない。戦後の日本の漫画家たちは手塚治虫を筆頭に、映画を山ほど見ていたから、映画の文法から大きな影響を受けており、現代の我々は映画もテレビドラマも見ているし、漫画もたくさん読んでいるから、それらの文法を大まかに把握している。だから、『鬼滅の刃』の物語が複数のシークエンスに分岐し、頻繁に場面転換が行われてもスラスラと読んで楽しめるのだ。逆にいうと、ある程度日本の漫画を読んだ経験のない人が『鬼滅の刃』や『ONE PIECE』を読んだら、おそらくどのように読めばいいのかわからない。『ONE PIECE』も、いきなり過去の回想編に突入して、それが延々と続いたりするわけだが、我々は日本の漫画の読み方を心得ているし、『ONE PIECE』のファンであれば作者である尾田栄一郎の語り口を読み慣れているので、別に読みにくいとは思わないまま読んでしまうわけだ。
現代の漫画や映画と、演劇で大きく違う点があるとするならば、何よりも頻繁な場面転換の技法なのだ。漫画や映画は、本当に一瞬で場面転換ができるのだが、演劇にはそれができない。この場面転換の技法がどこから出てきたかというと、19世紀の小説なのである。長大な物語をぶつ切りの断片で切り売りする連載形式で書かれることが多かった19世紀の小説は、それよりも古い時代の文学作品よりも、場面転換の技術が進歩していたのだった。
たとえばアレクサンドル・デュマの代表作の1つである『三銃士』は、19世紀の著者が17世紀に書かれた文書を見つけるところから始まる。200年ほども前の話を、19世紀のオンタイムの読者に向けて書くのだから、これは池波正太郎が書いたような時代小説なわけですが、デュマは場面転換が滅茶苦茶に上手い。17世紀に、こんなにまで頻繁に場面転換をする物語を書ける人はいなかったはずである。デュマの頻繁なる場面転換の技法は、それこそ20世紀のD・W・グリフィスの映画の技法にも匹敵する。もちろんデュマだけではなくて、ディケンズもドストエフスキーも場面転換が上手かった。
つまり、19世紀の小説と19世紀の終わりごろに発明された映画は、根本的には違うメディアであるにもかかわらず、場面転換がやりやすいという点で親和性がやたらと高かったのだ。