第2回 嫌悪こそものの上手なれ(前編)
大野露井(翻訳家/小説家)
再び外国語としての古典
アルチュール・ランボーは神童であった。ランボーの時代に神童といえば、ラテン語の成績がよいということである。しかしランボーが心からラテン語を愛したことはない。ラテン語は古典、すなわち保守の牙城であり、革命を愛したランボーとは本質的に相容れないものである。衝突の絶えなかった母ヴィタリーに、罰としてラテン語の詩句を暗記させられるたびに不満は募り、まともな職に就くためだけにこんな死語を学ぶのは無意味であるという声明文を書いたとき、ランボーはまだ九歳であった。シャルルヴィルの高等中学校でラテン語の賞を総なめにしたのは、確かに母のおかげだったかもしれない。だが詩人ランボーが誕生するには、勉強などほっぽり出して神童を扼殺し、家出と放浪によって天才に生まれ変わる必要があったのだ。
アルチュール・ランボー (写真:akg-images/アフロ)
奈良時代から平安時代にかけての日本の状況にも、あるいはランボーの心中と似たところがあったかもしれない。日本最古の書物である『古事記』(712)と、それに次ぐ勅撰の史書である『日本書紀』(720)が書かれてからわずか百年余りの間に、日本では勅撰だけでも三つの漢詩集が作られた。『凌雲集』(814)、『文華秀麗集』(818)、『経国集』(827)である。勅撰すなわち天皇の命による編纂だから、これらも『日本書紀』と同じく国家事業としての出版ということになる。
『古事記』の撰者であった太安万侶は、日本について漢文で書く、という文字通り未曾有の試みのために強いられた苦難を、序文でつぶさに語っている。
『古事記』の撰者であった太安万侶は、日本について漢文で書く、という文字通り未曾有の試みのために強いられた苦難を、序文でつぶさに語っている。
然れども、上古の時は、言と意と並に朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於ては即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮ばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣更に長し。是を以て、今、或るは一句の中に、音と訓とを交へ用ゐつ。或るは一事の内に、全く訓を以て録しつ。即ち、辞の理の見え叵きは、注を以て明し、意の況の解り易きは、更に注せず。(太安万侶『古事記』序文)【註1】
むろん、実際には漢文で書かれているのだが、私たちにはひどく読みにくいので、訓み下し文を引いた。ここからわかるのは、漢文は当時の日本人にとっても決して読みやすいものではなく、しかもひどく書きにくいものでもあった、ということである。《古代の言葉は素朴で、文字で記すのは困難である。漢語でばかり記述すれば文字の意味に理解が追いつかず、発音でばかり記述すれば文章が長くなる一方である。だから二つの表記を併用した場合もあれば、漢語だけで書いたところもある。理解しにくい場合には注をつけた。》―—ここまで保留をつけなければ、日本人は文章を綴り、理解することができなかったわけである。
文字を持たなかった日本人が、政治経済の制度と並行して輸入された漢文をこれだけの短期間にわがものとし、漢詩集まで編むようになったということは、むろん立派なことであろう。けれども、詩集に編まれるものは当然ながら、詩でなければならない。つまり、詩法に則りつつも感情の赴くままに、心を余すところなく、ときには現実を超越する次元においてさえ、存分に表現することができなければ、本当の意味で詩とは言えないはずである。それを外国語に過ぎない漢文で、どこまで実践できるだろうか。
例えば、勅撰のものに先んじて成立した初の国産漢詩集である『懐風藻』(751)には、次のような五言律詩がある。
文字を持たなかった日本人が、政治経済の制度と並行して輸入された漢文をこれだけの短期間にわがものとし、漢詩集まで編むようになったということは、むろん立派なことであろう。けれども、詩集に編まれるものは当然ながら、詩でなければならない。つまり、詩法に則りつつも感情の赴くままに、心を余すところなく、ときには現実を超越する次元においてさえ、存分に表現することができなければ、本当の意味で詩とは言えないはずである。それを外国語に過ぎない漢文で、どこまで実践できるだろうか。
例えば、勅撰のものに先んじて成立した初の国産漢詩集である『懐風藻』(751)には、次のような五言律詩がある。
寛政情既遠。迪古道惟新。
穆々四門客。済々三徳人。
梅雪乱残岸。烟霞接早春。
共遊聖主沢。同賀擊壌仁。【註2】
訓み下しながら説明するのも遠回りなので簡潔に意味を述べてしまうと、おおよそ次のようになる。《寛大なる帝の情深い政は遠い昔から続き、伝統を踏襲する方法はかえって新しい。四方の門から入ってくる賓客、徳高い人々が春の宴会に参列する。雪に見紛う梅の花は岸辺に乱れ散り、木々にかかる霞は早春にたなびく。誰もが帝の恩恵にあずかり、尭帝の時代に楽器を撃って帝を讃えた老人の故事にならい、帝の政を言祝いだ。》
勅撰ではない『懐風藻』とはいえ、この詩が非常に政治的であることは一目瞭然である。むろん世俗を歌った漢詩もあるが、政治システムの一環として大陸から文字を受け入れた日本の官吏にしてみればなおさら、漢文と政治は切り離し難い。春の宴の荘重な雰囲気や、居並ぶ人々の誇らしさは伝わってくるものの、その感動が肌身に迫るほどのものかと言われれば、私には首肯できない。
ここで和歌を一首、見てみよう。
勅撰ではない『懐風藻』とはいえ、この詩が非常に政治的であることは一目瞭然である。むろん世俗を歌った漢詩もあるが、政治システムの一環として大陸から文字を受け入れた日本の官吏にしてみればなおさら、漢文と政治は切り離し難い。春の宴の荘重な雰囲気や、居並ぶ人々の誇らしさは伝わってくるものの、その感動が肌身に迫るほどのものかと言われれば、私には首肯できない。
ここで和歌を一首、見てみよう。
我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(万葉集、巻5、822)【註3】
現代語訳は必要ないだろう。庭に散り敷く梅の花が、まるで天から雪が降り注ぐようだと言っているのである。政治の匂いもせず、純粋に早春の美しさに酔うのみである。先の「梅雪乱残岸」という文字列ではとても再現できない率直な喜びが、この歌からは読み取れないだろうか。
何を隠そう、先ほどの漢詩とこの和歌の作者は同一人物である。その大伴旅人は、『万葉集』を現在の形に整えたとされる大伴家持の父親だ。旅人も家持も、言ってみれば日本語と漢文のバイリンガルたることを強いられた世代に属している。宮廷に仕える身としては、漢文を読みこなし、気の利いた漢詩の一つもひねることができなければ、もとより生まれによって出世の機会が限られたこの時代において、なおさら日陰者として一生を終えるしかなかったであろう。だが、日本語と漢文という対比のちぐはぐさからもわかるように、未だ書記の定まらない日本語の話者であった旅人たちにとって、「書く」といえば漢文を指した。反対に、宮廷の外での生活を司る日本語は、感動に導かれたときには、「詠う」ための言語ともなったわけである。
何を隠そう、先ほどの漢詩とこの和歌の作者は同一人物である。その大伴旅人は、『万葉集』を現在の形に整えたとされる大伴家持の父親だ。旅人も家持も、言ってみれば日本語と漢文のバイリンガルたることを強いられた世代に属している。宮廷に仕える身としては、漢文を読みこなし、気の利いた漢詩の一つもひねることができなければ、もとより生まれによって出世の機会が限られたこの時代において、なおさら日陰者として一生を終えるしかなかったであろう。だが、日本語と漢文という対比のちぐはぐさからもわかるように、未だ書記の定まらない日本語の話者であった旅人たちにとって、「書く」といえば漢文を指した。反対に、宮廷の外での生活を司る日本語は、感動に導かれたときには、「詠う」ための言語ともなったわけである。