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常識を疑え!

日本の社会人はなぜ勉強好きなのか?

香山リカ(医師)

 4月になって、電車の中にも新社会人と思われる真新しいスーツ姿の若者が増えた。私は大学に出勤するときは地下鉄で、病院へはJRで行くのだが、いつも驚くのは多くの人たちが耳にイヤホンをしていることだ。

 とは言っても、そこからシャカシャカと音楽が漏れてくることはない。目をつぶってブツブツ暗唱したり、手もとのテキストに目をやったりしているところを見ると、彼らのほとんどは英語を勉強しているようなのだ。ほかにも、資格試験のテキストを開いたり外国語の文献を読んだり、「みんな本当に勉強家なんだなあ」とつくづく感心してしまう。

 またこの時期になると、ビジネス書の棚には「学習法」「勉強術」「速読法」といったタイトルがつけられた新刊書が並ぶ。勉強家や「勉強したい」という人が多いのはたしかだが、いざとなるとどうやって始め、どうやって続けてよいかわからない、という人も多いのだろう。さらに、「正直言って、勉強は苦手」という人も実は大勢いると思う。

 精神科医としてもひとりの人間としても、私は、「苦手なものを無理してやるのが、いちばん心にもからだにも悪い」と思っている。だから、「今年度こそ勉強しなきゃ」とわざわざ勉強法の本を買ったりセミナーに行ったりしている人を見ると、「そこまで自分を追い込まなくても」とつい止めたくなってしまう。

 実際に診察室では、猛勉強して疲れきっている人ばかりではなく、「勉強してスキルアップしなければならないのに、なかなか手がつけられない」と、勉強を始める前から自己嫌悪に陥って会社にさえ行けなくなっている人もいる。そういう人を見ていると、「スキルアップより、まずは今できていることをキープするほうが大切であり、同時にはむずかしいのではないか」と思う。

 国家の命題は「安定と繁栄」、とよく言われる。「安定していればそれでいいじゃないか」という気もするが、その安定を維持するためには、経済的成長など繁栄が保証されている必要がある、というのだ。だから、政権交代が起きても、新内閣は「経済成長戦略」を打ち出し、今年より来年、さらに10年後、20年後と、この国がどんどん経済成長を遂げているというビジョンを打ち出さなければならないわけだ。

 この考えが、おそらくいつのまにか私たち個人の中にもしみ込んでいるのだろう。まずは安定したい、でもそのためには成長、前進そして繁栄が必須である。そう思う人が多いからこそ、いつも「勉強しなきゃ、スキルアップしなきゃ」という考えにとりつかれ、あせりを感じてしまうのである。

 しかし、もし国家の安定のためには繁栄が不可欠だとしても、個人はそうではない。先ほども述べたように、“安定のための繁栄”がどの程度なのかがわからなくなり、常に「これじゃダメだ、もっと勉強を!」と自分を追い立てることで、ついには基本にあるべき安定まで手放してしまうケースがとても多いのである。

 もちろん、向学心を持って電車の中でも昼休みにも勉強するのは立派なことだが、それが強迫、義務になってしまうと、あっというまに私たちのもろい心身はバランスを崩してしまう。そうなると、向上どころか維持もむずかしくなる、ということを忘れてはならない。

 これから一日のたいへんな仕事に向かう電車の中くらい、つかのまの貴重なリラックスタイムと考えて、ぼーっとしたり娯楽のための読書をしたり。そうやって心のエネルギーを蓄えておいて、会社に着いてから自分なりにできることをやる。これで十分だと思うのだが、“車内勉強”中の人たちには「余計なことを言わないでくれ」と言われるのだろうか。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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