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常識を疑え!

原発事故はなぜ不安を与えるのか?

香山リカ(医師)

 今年は奇しくも、チェルノブイリ原子力発電所の事故が起きた1986年から25年の節目に当たる年だ。ヨーロッパやアメリカの医学雑誌の中には、改めて事故による健康被害を検証する特集を組んだり論文を載せたりしているものが目立つ。

 日本の有識者の中には、「チェルノブイリは日本の何倍もの規模の事故だったのに、子どもの甲状腺がん以外、目立った健康被害は出ていない」と発言する人もいる。しかし、それは正確ではない。海外の医学雑誌や論文は、こう言っている。「チェルノブイリ事故と健康の問題については今後も経過観察が必要だが、現時点でいちばんはっきりしているのは、それが精神面での健康に重大な影響を与えているということだ」。

 そのひとつイギリスの「Clinical Oncology」にも、「チェルノブイリ事故とメンタルヘルス面への影響」について検証した論文が載っている。それによると、直接、事故にかかわった作業員だけではなく、周辺住民や事故のときにはまだ生まれていなかった子どもたちまでが、うつ病、PTSDに悩まされているという。事故以降、チェルノブイリ原発が位置する旧ソ連のウクライナでは明らかに自殺率が上昇し、いまだに高止まり状態を続けているとする報告もある。

 これらのデータは何を言おうとしているのか。結局、放射性物質はがんやその他の身体疾患は増やさず、すべては“気のせい”ということだろうか。そうではない。自殺やうつ病は実際に生じた明らかな“心の病”なのだから、それを「放射能のせいではない」と言い切ることはできないはずだ。

 原発事故は、ほかの脅威とはまったく違うレベルのストレスを人間の心に与える。それは、事故が「いつまで続くかわからない」こと、放射性物質が「目に見えない」こと、そして情報が錯綜し「誰が言っていることが真実かわからない」こと、という独特の性質に基づいている。これらが、長時間労働によるストレスや自動車事故などのトラウマの比ではないほどの強さ、範囲で、人間の精神にダメージを与えることになるのだ。

 日本でも、私が勤務する東京の診察室には、早くも原発事故以来、眠れない、食べられない、イライラする、仕事が手につかない、といった“症状”を訴える人がやって来るようになっている。この人たちはたしかに、放射性物質の直接の影響で不調に陥っているわけではないが、原発事故がなかったらそうはならなかったという意味では、その被害を受けていると言ってもよい。それにこの人たちは、ふだんから気持ちが弱かったり神経質すぎたりしているわけではない。社会的に重要なポストについている人やふだんはタフな人の中でも、かなり深刻な「原発うつ」とも言える状態に陥っているケースが散見される。

 では、この「原発うつ」はどのようにして予防すればよいのか。実を言うと、これといった対策はない。とにかく一日も早く収束のめどが立つこと、そして、私たちが「今日の原発は」と新聞やテレビをチェックしなくてもよくなること、これしかないのだ。

 そうなると、先は長い。原発事故というトゲがのどにささったまま、いかにストレスに倒れることなく、日常の生活を送ることができるか。震災などの災害に対する心のケアマニュアルはあっても、原発ストレス対応マニュアルは世界にまだ存在しない。今後、私たちが独自にこの分野の研究を行い、対策を講じていくほかないのだが、「日本が原発ストレスの先駆的研究を行った」と世界に紹介されてもあまり誇らしい気持ちにはなれないのは、なんとも皮肉な話だ。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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