京都嘱託殺人事件から考えた――誰もが"使命"を手に入れられる社会か、"使命"がなくとも生きられる社会か?
香山リカ(医師)

今年は自分自身もそうである「医者」という職業や、「生と死」について、いつも以上にあれこれ考える年となっている。
ひとつはもちろん新型コロナウイルス感染症の拡大のためであるが、もうひとつは、神経難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者に対する嘱託殺人容疑で医師が逮捕されるという衝撃的な事件が起きたためだ。
前者に関しては今回は深く立ち入らないが、医療現場にいる私にとっては苦闘の日々がいまだに続いている。何せ、その病気を疑わせる病歴や症状があっても、確定診断の唯一の決め手であるPCR検査が簡単にできないのだ。一時よりは改善されたとはいえ、検査しにくい状況はいまだに続いている。医者として「必要と思っても患者さんに検査をしてあげられない」という経験ははじめてだ。さらに不思議なのは、医者たちの中からも「検査拡充は不要」と主張する声が上がっていることだ。この人たちはどうやって診断や治療を進めているのだろう。いずれにしてもこの問題はまだ現在進行形なので、いつか総括しなくてはならないと思っている。
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このような状況が続く中で発覚したのが、昨年11月に京都市で起きた嘱託殺人事件だ。マンションで介護を受けながらひとり暮らしをしていたALSの女性患者(事件当時51歳)が、SNSを通じて「安楽死」を医師に依頼し、その結果薬物を投与されて亡くなったと報じられている。このことは今年(2020年)7月23日、嘱託殺人容疑で40代のふたりの医師が逮捕されて明らかになった。
事実関係が少しずつ判明するにつれ、この事件にはさまざまな問題が絡み合っており、簡単には語れないということがわかってきた。まだ容疑の域を出ないが、現時点で私が整理しているその「さまざまな問題」とは、大きく分けて次の三つだ。
①安楽死、尊厳死など「死の自己決定」について
②生命に直接かかわる仕事に携わる医師が、生や死、また①の「死の自己決定」をどうとらえるか
③「生きる意味」と、それを失うときについて
事件が発覚した直後、日本維新の会の代表を務める松井一郎・大阪市長は、自身のツイッターでこの事件の報道を引用しながらこう呼びかけた。
「維新の会国会議員のみなさんへ、非常に難しい問題ですが、尊厳死について真正面から受け止め国会で議論しましょう。」[1]
この事件の根幹にあるのは前述の①、つまり「死の自己決定」という問題だが、それとともに今回は②についても熟考が必要だ。ただ、「医師にとって生と死とは」という一般的な問題に入る前に、まず逮捕された医師について論じてみたい。
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医師ふたりが実名で報道された直後に、ふたりが共著で『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術 誰も教えなかった、病院での枯らし方』というタイトルの電子書籍を出版していたことが報じられた(医師Aは実名、医師Bはアルファベットを連ねたペンネーム)。また、医師Bはペンネームと同じアルファベットをユーザー名やアカウント名として、ツイッターやブログを開設していることもわかった。
1万人以上のフォロワー(注・事件発覚後に増加して現在は2万人)を持つそのツイッターアカウントの投稿をさかのぼって読んでみて、私は仰天した。医師Bは、高齢者や回復不可能とみなされる病の人たちに対して、それ以上の生には意味がないと言い続けている。事件が起きたとされる2019年11月の前も後もそれは変わらない。
「経済的な生産性でいうとマイナスでしかない認知症老人に人生をからめとられて、退職を余儀なくされるとか、ほんとボケ上がった老人を長生きされることに俺は興味も関心もない。」(2019年8月12日、[2])
「予後不良なのに治療に人生とカネを費やす意味があるんすかね」(2020年3月22日、[3])
「長生きしてもいいことなんかあんのかよ。耐用年数を超えてボケた脳ミソとあちこち痛いだけの体、年金じゃ食えない耐乏生活、子供に介護費用を無心したり、娯楽に使えるカネもなく、テレビで安倍の悪口いうくらいの毎日。」(2020年4月17日、[4])
これらを読むとわかるように、高齢者や予後不良(回復の見通しが少ない状態)の疾患の人たちの生の継続に意味がないと医師Bが思うのは、医療費や介護費用、つまり「カネの無駄」だからということのようだ。今年になってからは、新型コロナウイルス感染症に関しても、医師Bは饒舌に語っている。そこでも問題にされるのは、カネのことだ。
「死ぬべき人がひとしきり死んだら、コロナ騒ぎも終わって経済回るんじゃねえのかな。」(2020年4月4日、[5])
「ワイドショーをみる時間がたんまりあるって時点で、頭の弱い貧乏キャラ確定なのだが、そいつらが『コロナで不安』とかいい始めたら、秒で切ることにしている。」(2020年6月9日、[6])
こういった考えが根底にある医師Bは、尊厳死や安楽死を肯定するツイートを繰り返し行っている。
「『安楽死コンサルタント』って名刺に書くかな。」(2019年8月25日、[7])
「安楽死外来(仮)やりたいなあ」(2019年11月20日、[8])
「精神疾患の安楽死施設ならすぐ作れそうだけどな。 かかわりたくはないが」(2019年12月19日、[9])
その理由も高齢者やコロナ感染症の問題と同じ、「カネの無駄」ということのようだ。それがうかがわれる2016年のツイートを紹介しよう。
「議員定数を若干減らすよりも、尊厳死法とか安楽死法を通した方が財政は持ち直すと思うけど。」(2016年2月21日、[10])
もちろん、ツイッターが人の本当の考えだけを書くツールだ、と言うつもりはない。自分で設定したキャラにあわせて、1万人ものフォロワーの期待にこたえてあえて過激なことや挑発的なことを書いていただけかもしれない。しかし、医師Bはこういったツイートを続ける途中で、ALSの患者からの依頼を受け、その人の胃ろう(栄養を直接、注入するために腹部から胃に開けた穴)から薬物を入れて死に至らしめたのだと報じられている。それを思うと、これらのツイートを「まったく心にもなかった言葉の創作」と考えるのは無理があろう。また、ほかにALSの患者や関係者を揶揄するように「ALSご一行さま」と表現するツイートもあり(2020年3月26日、[11])、医師Bがこの難病を深く理解し、患者たちへの敬意を持っていたとは、とても言いがたい。
それらを総合して考えると、この医師は「高齢者や回復不可能とみなされる患者を生かしておくのはカネの無駄でしかないから、すみやかに生を中断させる、つまり死に導くべし」という信条の持ち主で、この信条に近いものとして、これまで長いあいだ議論されてきた「安楽死」や「尊厳死」という言葉を用いたのにすぎないのではないだろうか。
しかし彼の信条は、「本人らしい生き方」や「本人が考える最期」を尊重するという意味の「尊厳死」という言葉とはほど遠い。生や死の問題を、経済効率性や生産性を優先して決める、という意味では、それはむしろ優生思想に近いものといえよう。
日本医師会の新しい会長に就任したばかりの中川俊男医師も、2020年7月29日の会見で、「患者さんから要請があったとしても、生命を終わらせる行為は、医療ではない」「容疑に問われている医師は、主治医ではなく、診療の事実もなく、(略)決して看過できるものではない」[12]と嘱託殺人を強く非難した。

さて、ここで最初の問題設定に戻ろう。
まず①安楽死、尊厳死など「死の自己決定」についてである。もし医師が経済至上主義的な発想から「生の中断」を肯定(というより推奨)する考えだったとして、今回のALS患者の死は安楽死や尊厳死ではなかったのだろうか。それは医師の問題とは切り離して考えるべきだろう。
先にも述べた通り、安楽死や尊厳死については長いあいだ、多くの議論が行われてきた。そして、それじたいは決して安易に否定されるべきではない、と私も医療従事者のひとりとして思っている。今回の患者もまたブログやツイッターを開設しており、全身が動かない中、視線によるパソコン入力で日々の様子や考えを発信していた。そこから、切実な気持ちから安楽死を強く望んでいたことがうかがえる。本人にとってはそれを実現することが目的であり、容疑者である医師が深い倫理観の持ち主か経済至上主義者なのかなど、あまり関係なかったのではないか。だから、ふたりの医師が、たとえ一部の報道にあるように130万円という謝礼金目当てに薬物注入に及んだのだとしても、それだけで「この人が遂げたのは安楽死や尊厳死ではない」と言うべきではないだろう。
ただ、まだふたりの医師の特異な印象が強すぎるいまは、最初にあげた松井一郎氏のように「尊厳死について真正面から議論しましょう」などと呼びかけるのは時期尚早と思われる。ではいつならいいのか、と言われても答えに窮してしまうのだが……。
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