京都嘱託殺人事件から考えた――誰もが"使命"を手に入れられる社会か、"使命"がなくとも生きられる社会か?
香山リカ(医師)
著者のこの論はいささか飛躍しすぎのようにも思う。支援団体の人たちも「使命をまっとうする気がないなら生きる価値はない」とまでは思っていないはずだ。しかし、この文章で取り上げられる「津久井やまゆり園障害者殺傷事件」の植松聖死刑囚や、今回の嘱託殺人を行ったとされる容疑者の医師たちの発想の根幹にあったのは、「生産性のないものは生かしておく価値がない」というものであった。
ここで誤解のないように強調しておきたいが、私は何も難病や知的障害のある人に仕事を通して社会参画を促す動きが、前述のような経済至上主義、優生思想とつながっている、と言いたいわけではない。ただ、そこに「生産性」という概念が導入された瞬間に、本来は完全に対極にあるはずのこれらの現象のあいだの壁が崩れる可能性があることも、私たちは忘れるべきではないのではないか。
木澤氏はより強い言葉でこう言い切る。
「当たり前だが、人間には『使命』などない。そのような言葉に惑わされてはならない。その言葉は人間を特定の方向に駆り立て、コントロールしようとする。使命、それはあなたを束縛する負債である。
同様に、人間には『生産性』もない。あるのは『生』だけだ。」
ただ木澤氏は、そのあとで知的障害者の支援団体に“うさんくささ”を感じ取ってしまったことを「もちろん、すべてが僕の妄想であったなら、どれだけ素晴らしいことだろう」と言い、「事実、僕の両側で食事を摂っていた両親も、この特集にとくに何の疑問も抱かなかったらしい。これが『普通』なのだ。だとしたら、おかしいのは僕の方なのだろう。」とややトーンダウンしながらこの文章を閉じる。
ならば私もやはり木澤氏にならい、先ほど「生きているだけで価値だよ!」を目指すべきだ、などと言ったのは撤回して、やはり人は「誰かにとって必要な存在」でなくてはならない、と言い直した方がよいだろうか。
今回の事件で亡くなった享年51歳の女性は、本当はどうだったのだろう。もし彼女の病気の進行がもう少し遅ければ、吉藤氏などが開発する技術を利用して、もともとやっていた建築や設計に関連した仕事に携わることができ、お金を稼いだり「誰かにとって必要な存在」という手ごたえを得たりできただろうか。それとも、彼女が心からほしかったのは、誰かに繰り返し「生きているだけで価値だよ!」と言われ続けることだったのだろうか。
いくら考えてもそれはもうわからない。「では私は?」と自分のことを考えてみる。いまはまだ仕事をしている私だが、あと何年かすると大学の定年退職のときがやってきたり、目や耳が老化で衰えて医師の仕事に自信が持てなくなったりするだろう。そのときに一気に自分は無価値になったと考えるのか。それとも「生きているだけで価値だよ!」とたとえば身動きが不自由になった体で言い続けていられるのか。すぐ先のことなのに、意外なほどよくわからない。
生きている意味や使命。自分の価値と他者からの承認。生産性や効率。私たちはそれらからもう自由になることはできないのか。それがなくても生きられるのが動物で、人間とはそれらを求める生きものだとしたら、なんと不自由なことなのだろうか。
やりきれない気持ちで、いつもとは違うコロナ禍の夏を迎えた。
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