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常識を疑え!

戦争動画を見て眠れなくなっているあなたへ

香山リカ(医師)

 さて、フラッシュバックが起きるようなPTSDにまでは至らなくても、「つらくてしんどい」と訴える人はさらに大勢いると思う。
 この人たちに起きているのは、「共感疲労」つまり「つらい状況にある他者に対して感情移入し、心を強く動かす状況が長く続くことによる心身のエネルギーの枯渇」と考えられる。これは精神医学的な診断名ではないのだが、福祉系や心理系などいわゆる支援職、援助職の領域でかねてから問題になっていた現象だ。
 この領域の職業に携わる人は、病人、被虐待児童、障害のある人、認知症の高齢者などさまざまな立場の当事者たちに寄り添い、その話を聞き、援助の手を差しのべるのが日常となっている。多くはそういう仕事に就くことで、弱い立場にある人のために自分の力を使いたいという志を持つ人であるために、知らずしらずのうちに「相手の立場に立つ」姿勢で仕事にのぞむ。ときには児童を虐待した親に怒りを感じたり、病の床にある人の苦しみを追体験したりもする。
 ところが、そういう共感的な態度を長期間続けると、心身は次第にエネルギーを削り取られ、ダメージを受ける場合があることが知られるようになったのだ。具体的にはそれは、不安感や落ち込み、イライラや怒り、集中力の低下、慢性疲労や頭痛、吐き気などの身体的不調として現れる。もちろん仕事の効率は下がり、ミスも目立つようになるので、それが「共感疲労」だと気づくことができなければ、本人は「私のがんばりが足りないのだ。これでは相手に申し訳ない」とさらに自分をむち打とうとするという悪循環に陥る。当然、疲労はさらに蓄積して、仕事の効率や成果も下がる。そのうち何をやってもうまくいかなくなり、「私はこの仕事に向いていないんだ」と退職したり、ついに“燃えつき状態”になって起き上がれなくなったり、悲劇的なケースでは自責の念から自ら命を絶つ人もいる。

 もちろん、今回のウクライナ侵攻では、日本の人たちのほとんどは職業上、この問題にかかわっているわけではない。しかし、前述したようにおびただしい量の情報に触れ、あたかも目の前にいる人にするように現地の人たちに感情移入しているうちに、程度の差こそあれ、この共感疲労の状態にまで至っている人が少なくないことは十分、考えられる。
 さらに、「共感」はウクライナの人たちに対してのみ起きるわけではない。侵攻が長引き、世界からロシアへの種々の経済的制裁が加えられることによって、ロシアの一般国民の生活も苦しくなりつつある。ネットやクレジットカードが使えなくなり、外資系の店の多くは閉店。外国企業の引き揚げで職を失った人もいる。そういう状況が伝えられ、「ロシア国民が戦争を起こしたわけではないのに」と気の毒に思うのも「共感」であり、その結果、「共感疲労」が起きることも当然ありうる。

③「サバイバーズ・ギルト」という問題

 いくらSNSでウクライナ侵攻や被害を受ける人を身近に感じるといっても、スマホから目を上げればそこには“いつもの日常”が広がっている。日本はとりあえず平和で、春風も吹き始めた。子どもが受験に合格したとか友人が昇進したといった、この時期ならではのうれしいニュースもある。多くの人は、心の中で「私のまわりは、いまのところ平和でよかった」とホッとするのではないか。
 ところが、そこで「ここだけ平和でよいのか」と苦しむ人もいる。災害や事故などで生き残った人たちや、被害が少なかった人たちを襲うこういった感情は、心理学で「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)」と呼ばれている。アウシュビッツ収容所から生還したユダヤ人が戦後、抱いて苦しんだ感情として知られたものだ。
 東日本大震災のあと、津波や原発事故の被災地から離れた東京の診察室でも、「ここは無事で水も電気も食べものもあります。ふつうの生活を送っているのが申し訳ない。温かい食事を私だけ食べてよいのか」と「サバイバーズ・ギルト」を訴える人が大勢いた。今回も一部の人たちは、「日本が平和でよい季節であればあるほど、ウクライナと比較して申し訳なさを感じる。素直に喜んだり楽しんだりできない」と感じているのではないだろうか。

 繰り返すが、今回の戦禍ではSNSにより、私たちはウクライナ、さらにはロシアで生きている“個人”とつながり、その人たちの苦しみや嘆き、あるいは受けている被害をリアルタイムでダイレクトに知ることができる。職場の同僚がこんな話をしてくれた。
「インスタグラムでウクライナからポーランドに避難中の人のアカウントをフォローしている。避難する直前から見ていたので、無事に国境を越えられるか、ハラハラしながら見守っていた。いろいろ困難はあったが、なんとか向こうに着いたときは思わず涙がこぼれた。
 そのアカウントの投稿をさかのぼって見ると、わずか1カ月前まではふつうに洋服やヘアスタイルの写真をアップしているおしゃれな女性だったんだよね。それが、いまはほとんど着の身着のままで知らない場所に逃げている。本当にやるせないよ」

 こんなふうに、戦地にいる個人の現実や心情に没入しながら戦争のゆくえを見守った経験を、私たち人間はこれまでしたことがなかったはずだ。「遠い国の戦争」を身近な問題として感じるには、少ない報道から精いっぱいの想像力を働かせたり、現地でのジャーナリストのルポを読んだりするしかなかった。しかし、現代は違う。手の中のスマホをちょっとだけ操作すれば、そこにはいま空爆を受けている町からのリアルタイムの映像配信があり、住み慣れた家を離れて逃げようとしている人たちの悲痛な姿がある。場合によっては、その人たちとメッセージのやり取りをすることさえできる。
 それによって私たちの心がどんなダメージを受けるのか、わかっている人は誰もいない。今回はPTSD、共感疲労、サバイバーズ・ギルトといった従来から知られている概念を用いて説明を試みたが、その枠には収まらない“何か”が、戦地にいるわけではない私たちの心身に起きる可能性もあるのだ。
「それを避けるためにも情報には触れすぎないでください」と言うのは簡単だ。しかし、それははっきり言って無理だろう。また、ウクライナやロシアでいま「何が起きているのか」を知るのは、好むと好まざるとにかかわらず、グローバル社会を生きる私たちの責務だとも言える。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 ただ、それでもやはり知っておくべきだ。SNSによって世界の個々人に届けられるこの戦争は、これまでとは次元の違う没入感をもたらしている。戦地にいない人の心にもたらされるショックや恐怖、同情や怒り、悲しみなどの強い感情、罪悪感などの大きさは計り知れない。そしてその結果、想定外の心理的ダメージを受け、そのままメンタル不調に陥る人が出てきても不思議ではない。
 根本的な対策はただひとつ、戦乱が早く収まることなのであるが、それまでの間、それぞれがなんとか自分や家族の心を守ることも考えるべきだ。そうなるとやはり、スマホやメディアとの接触時間を減らす、自分を休ませ楽しいことに集中する時間も持つ、運動なども取り入れてからだに注意を向ける、といった常識的な対策しかないということになるだろうか。そして、不眠や落ち込みが続くようになったら、早めにメンタル専門医のもとを訪ねて相談する。現時点で思いつくのはこれくらいだ。
 とはいえ、これまでにはないことが起きているのだから、対策もこれまでにはなかったものが必要になるはずなのだ。この問題は、これからも引き続き考えたい。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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