『スポーツ毒親』を読んで、「子を持つ」ことに前向きになれなかった理由が明確にわかった
雨宮処凛(作家、活動家)
性暴力を振るう男性の中には、このようなやり方が常套手段になっている人が多くいる。私自身、キャバクラで働いていた時期このような客をよく見たし、世間でいう「パワハラ上司」の一定数がこの手の加害者だ。彼らがやっかいなのは、成功体験を積み重ね、確信犯的にそのやり方を続けているということだ。と、今の私ならそのように分析できて「怒鳴ったり激怒して相手をビビらせ萎縮させ、急に優しくしたらコントロールできて好き放題できると思ってるカス野郎」と冷静に観察できる。が、子どもにはそんなことはわからない。
中学生時代の私は、大人でも震え上がるほどの絶叫で暴言を浴びせる顧問教師が怖くて怖くて仕方なかった。もしあの時、急に優しくされていたら。普段、全人格を否定されていた分、「認められた」「許された」気がして、嬉し涙さえ流してすがりついていたかもしれない。そしてそれが「恋愛」だなどと大いなる勘違いをしていたかもしれない。
そんなことを思うと、学校とは、部活とは、そして圧倒的な力を持つ男性がそのコミュニティから崇拝されている集団とは、実に危険なものである。
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読み進めながら、なぜ自分が部活内でいじめに遭ったかもよくわかった。下手だからいじめられたという自覚は当時からあったのだが、明らかに「いじめてOK」というメッセージが大人たちから出ていたのだ。
例えば最初に紹介したバレーのクラブ内では、「できない子」が「できる子」に土下座させられていたという。もちろん監督の指示。大人主導で「いじめの土下座」が蔓延していたのだ。
また、同チームでは、監督が一人の子どもを責めると、全員の親がその子を否定し、責める空気になっていたという。親まで巻き込むなんて、子どもにとっては逃げ場がない。
さて、それではなぜ親たちは疑問を持たずに巻き込まれていたのか。そこにあるのは「勝利」「全国大会」などの魔力だと著者は書く。
自分の子どもが大会で活躍できるという自慢。誇り。特に自己肯定感の低い親ほど子どもがスポーツで秀でると過度に期待し、「自分が行けなかった全国大会へ」と身代わりヒーローを求める傾向があるという。
ふたつめはさきほど紹介したストックホルム症候群にみられるようなトラウマ性結びつき。
さらにもうひとつ、「生存者バイアス」も説明されている。親たちも厳しい部活やそこでの体罰に耐えてきた。そのことを「あの時頑張れたから今の自分がある」と正当化してしまう。が、中には私のように、トラウマから今もスポーツ全般が大の苦手だという人もいる。人間不信が植えつけられた人もいれば、それによってひきこもりになった人もいる。また、実際に指導死やいじめで多くの自殺者が出てもいる。
しかし、死ななかった側は「あの指導こそがあったから」と思ってしまう。そして子どもにも厳しい環境を強いてしまうのだ。
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本書には、指導者のヤバい言葉が登場する。
〈「大丈夫ですよ。4年生になるまで殴りませんから」〉
〈「最後のとどめは刺さないから大丈夫だよ」〉
後者などまるで殺し屋のセリフではないか。それが子どもを指導する人たちが口にする。
13年、スポーツと教育現場における暴力行為根絶宣言が出された。しかし、それから9年経っても、暴力は根絶されたとは言い難い。
そうして最近、あることを知った。
「行きすぎた勝利至上主義」が散見されるという理由から、今年度、柔道の小学生の全国大会のひとつが廃止になったのだという。指導者や保護者が過熱し、子どもを追い詰めてしまうことが問題視されたからだという(朝日新聞「(フォーラム)小学生のスポーツ全国大会」、20年5月22日)。
教育評論家・武田さち子さんの調査によると、未遂も含む指導死は、平成以降94件も起きているのだという(琉球新報「社説 男子高校生の自殺 再発防止へ具体策明示を」、21年2月16日)。
そうして2020年の子どもの自殺は過去最多の499人。もしかしたら、その中には表に出ていないだけで「行き過ぎた」指導が原因のひとつという死があったかもしれない。
子どもが子どもらしく、楽しんでスポーツができる世界。そして嫌なら、スポーツをしなくていい世界。
そういうのが、みんな安心できる世界だと、改めて思うのだ。