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なぜリベラルは「負ける」のかについて考えてみた

雨宮処凛(作家、活動家)

 そんな人たちと「生きさせろ!」「貧乏人は人の言うことを聞かないぞ!」とデモをすれば、どこからかワインなどの酒瓶が回ってくる。当時のデモは「路上パーティー」という意味合いも強く、自分たちの手作りの祭りとしてただひたすらに祝祭的なものだった。

 それがいつからか、そんな「自由な空気」は忌避されるものになっていった (今でも高円寺系など一部には残存)。

 これは個人的な印象だが、ひとつのきっかけは東日本大震災ではないだろうか。

「レベル7の最悪の原発事故」を前にしてガチの「脱原発デモ」が開催されるようになり、運動が本気モード・真面目モードになったのだ。

 同時に、SNSの台頭によって、「デモなどが世間からどう見られるか」が重要視され、「不適切」とされるような行動は批判を浴びるようにもなってきたこともあるだろう。

 が、もっと前に遡れば、リベラルはくそ真面目でもなんでもなく、私にとっては随分「無神経」に思えるものだった時代もある。すっかり忘れていたけど、それは1990年代。

 この頃は女子高生の援助交際やブルセラショップが流行し、大きな注目を集めていたわけだが、いわゆるリベラルの中にはこれらに寛容な言説もあった。また同時期、女性の人権を踏みにじるような「鬼畜系AV」がカウンターカルチャーのような扱いを受け、一部のリベラル系知識人と言われる人々に賞賛されていたりしてもいた。その一方で、一部の右翼団体が「日本人男性の海外買春」や「ブルセラブーム」を「堕落」とみなして批判するという光景が広がっていた。

 あくまで私から見えていた当時の光景だが、わずか30年前を振り返ればそんな状況だったのに、一体いつから、何があって今のように変わったのだろう? 冷笑系やヘイトデモの台頭などが断片的に思い浮かぶが、この辺を整理してる原稿とかってあるのだろうか?

 さて、そんな90年代とは隔世の感がある今のリベラルについて、小説家・中村文則氏が朝日新聞に寄せた原稿「断絶のS字社会、蛇は何思う リベラルへ優しく誘う、私達の脱皮は」(朝日新聞デジタル、2025年1月10日)が非常に興味深かった。

〈いわゆる人権や多様性を重んじる立場をリベラルとするなら、これからは「新リベラル」みたいなものに変身(?)する必要があるかもしれない、と自分を含めて思う〉から始まる文章には、中村氏の「アメリカの知人」のエピソードが綴られる。

 芸術作品を売るエージェントを始めたという知人が知り合いの男性の作品を売り込み先に紹介したところ、なぜ男性作品だけ扱うのか、男性だけ扱うことは評価できないなどと言われたのだという。それを受けて、中村氏は書く。

〈男女の機会均等は当然だ。でもここまで厳しいと、大学の友人同士で始めたばかりのベンチャー企業に、社員が男性だけだから契約しない、と言うに等しいかもしれない。知人はリベラルな人だが怒っていた。(中略)僕は彼の様子を見ながら、妙な予感がした。アメリカの選挙は、もしかしたらトランプ氏が勝つかもしれないと〉

 そしてその予感は当たったわけである。

 一方、雑誌『世界』25年2月号(岩波書店)に掲載された社会学者・伊藤昌亮(まさあき)氏の「『オールドなもの』への敵意 左右対立の消失と新たな争点」という原稿も興味深い。

 サブタイトルにある「新たな争点」のひとつは、世代間対立。が、それだけではない。

〈高齢者、テレビなどのマスメディア、地方議会、公務員などがひとからげで「オールド」視され、「既得権益」の上にあぐらをかいている「既成権力」として〉少なくない人々に攻撃されているわけだが、それが大々的に展開されたのが都知事選と兵庫県知事選であることが指摘される。

 振り返れば石丸伸二氏は「若者応援」「老害批判」を展開し、斎藤元彦氏は、県議会や県庁など「既得権益層」と対峙する存在として演出された。

 そうして、〈高齢者への過度な再分配のために現役世代が過度な負担を強いられ、そのせいで自分たちの生活が苦しくなっている〉と感じる現役世代がなぜリベラルを支持しないかが分析される。

〈昨今のリベラル派はとりわけ多様性の観点から、マイノリティを苦しめている文化的な弱者性にばかり目を向け、彼らを苦しめている経済的な弱者性のことを気にかけているようには見えないからだ。そうして「誰が弱者なのか」を一方的に決め、自分たちが守りたいものだけを守ろうとしているように見えるリベラル派の中に、彼らは強い権力性を見出し、さらにそこで守られている存在、すなわちマイノリティの中に「既得権益」を見て取る〉

 詳しくは『世界』を読んでほしいが、この傾向は黒人や女性、LGBTQなど「アイデンティティー集団」の権利擁護を求めてきたアメリカのリベラルの限界、という話とも通じるものだろう。

 さて、それではリベラルと言われる人々はどうすればいいのか。前述した中村氏は、原稿終盤で〈重要なのは伝え方だと思う〉と書いている。

〈リベラルは丁寧に親切に、優しくなるのはどうだろう。ユーモアもあるといい。リベラルを嫌う人の内面構造を理解し、拒絶や押し付けではなく包括し、リベラル側へと少しずつ誘うイメージはどうだろう〉

 同感である。私もある媒体で、「トーンポリシング」(相手に「そういう話し方だからダメなんだ」などと批判して論点をずらすやり方)と批判されるのを覚悟で「伝え方」の見直しについて書いた。上から目線や攻撃的な言葉は、共感よりも反感を生んでしまうからだ。

 さて、今年は3月に千葉県知事選と福岡県知事選が、そして夏に東京都議選と参議院選挙がある。リベラル陣営にとって、多くの有権者の共感を得られるかの正念場だ。

 そんな選挙を前にして、1月、兵庫県知事選に絡んで多くの誹謗中傷に晒されていた元兵庫県議の竹内英明氏が命を落とした。自殺とみられているという。

 SNS社会になって、フェイクとデマと誹謗中傷の嵐が吹き荒れる場となった選挙。 

 そんな時代においてここから何ができるのか、絶望しそうになりながらも、考えている。

著者情報

作家、活動家

雨宮処凛

あまみや かりん

1975年、北海道生まれ。作家、活動家。反貧困ネットワーク世話人。バンギャル、右翼活動家を経て、2000年に自伝的エッセー『生き地獄天国』でデビュー。自身の経験から、若者の生きづらさについて著作を発表する傍ら、イラクや北朝鮮へ渡航を重ねる。その後、格差や貧困問題について取材、執筆、運動を続ける。『生きさせろ! 難民化する若者たち』でJCJ賞受賞。著書に『一億総貧困時代』『「女子」という呪い』など多数。

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