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連載

ある日突然、「お父さんはあの事件の犯人」と言われたら。衝撃的すぎた『爆弾犯の娘』

雨宮処凛(作家、活動家)

 まさかこの人が爆弾犯の娘だったとは――。

 同世代の脚本家の「告白」に、腰を抜かしそうになった。

 それが誰かについて書く前に、私自身のことを少し書きたい。

 1975年生まれの私は、親がバリバリの団塊世代(しかしまったく政治活動とは無縁)。

 ちなみに私が生まれる少し前、この国は「政治の季節」なんて言われていて、東京大学の安田講堂が占拠されたり学生が「赤軍」なんてものを作って飛行機をハイジャックして北朝鮮に向かったり、「革命」を目指した連合赤軍が山に籠って同志殺しをした果てに機動隊と銃撃戦を繰り広げたりと、なにやらトンデモないことばかりやらかしていた。

 そんなことを20歳頃に知ったのだが、当時、フリーターで生きづらくて仕方なかった私にとって、「親世代の一部が自分と同世代だった頃、“世界同時革命”とか壮大な夢を見た果てに国家権力なるものと闘ったりしてた」という事実にはただただ驚愕し、頭には「なぜ?」という疑問符が浮かぶばかりだった。

 当時の私には、世の中を呪う気持ちだけはあった。何もかもうまくいかなくて貧乏で、自分を必要としてくれない世界への恨み。

 だけどそれをぶつける先は自分の手首しかなくて、リストカットくらいしかできない自分のしょぼさにほとほと嫌気がさしていた。

 だけどどうしたことだろう。数十年前の若者たちは、機動隊と闘ったり火炎瓶を投げたりと、自分を責めることも省みることもなく世の中に怒りをぶちまけまくっているではないか。

 そんなことにいたく衝撃を受けた私は20代前半から、できたばかりのトーク居酒屋・ロフトプラスワン(東京都新宿区)に入り浸るようになる。

 90年代後半の当時、そこには赤軍派や連合赤軍などの「元兵士」たちがよく出演していたからだ。

 ステージ上だけでなく客席にも、連合赤軍事件で逮捕されて20年以上を獄中で過ごしてきた人とか、よくわかんないけど「爆弾作って刑務所にいた」という人が当たり前にいて、3、4人も揃えば「合わせて獄中100年!」なんてこともよくあった。

 そんなおじさんたちは驚くことに、数十年前の「○○闘争」をめぐり、まるでそれが昨日の出来事であるかのようなテンションで互いを罵倒し合っていた。

 それだけではない。「○○糾弾!!」なんてチラシを作って配ってはおじさん同士、掴みかからんばかりの剣幕で言い合いをするなど、70年代を世紀末のロフトプラスワンで再演していた。

 よく聞くのは「ジュッテンニーイチ」とか「新宿騒乱」などの専門用語。初めて「自己批判しろ!」という言葉を生で耳にした時には、「リアル連合赤軍!!」と興奮したりもした。

 ちなみに団塊ジュニアの私は尾崎豊世代でもある。20歳の頃、すでに尾崎はこの世にいなかったものの、中高時代、彼はクラスの一軍ヤンキー勢に独占されていたため、自分はヴィジュアル系バンドを追いかけるバンギャ道を極めたという経緯がある。そうして尾崎的な「夜の校舎窓ガラス壊して回った」系の反抗に乗れないまま成人し、厨二病を引きずっていた私の視界に入ったのが「反体制」を掲げた過去の学生運動だったのである。

 そうして私には、赤軍関係の知り合いのおじさんが増えていき、気がつけば人生初の海外旅行で北朝鮮に旅立っていた。誘ってくれたのは、元赤軍派議長の塩見孝也氏。

 70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕され、獄中20年という人である。なぜそんな塩見さんが私を北朝鮮に誘ったのかといえば、かの地には70年、よど号をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派メンバーがいたからだ。

 2000年、25歳で物書きデビューしてからは、さらに物騒な人たちとの付き合いが増えていった。

 気がつけば連合赤軍のイベントにもよく呼ばれるようになっていたし、元日本赤軍で映画監督の足立正生(まさお)氏とは取材で知り合って以降、付き合いが続いている。

 そのようなことから2024年1月、「東アジア反日武装戦線・さそり」のメンバーとして半世紀近く指名手配されていた桐島聡氏が病院で名乗り出たという一報には、腰を抜かすほど驚いた。この連載でも「東アジア反日武装戦線・桐島聡死去を受けて、今、『腹腹時計』を読む」という原稿を書いたのでぜひ読んでほしい。

 闘争界隈でも謎のベールに包まれている「東アジア反日武装戦線」の人との付き合いはなかったものの、毎年必ず行っている「死刑囚表現展」(死刑囚の描いた絵画や詩などの展覧会。驚くことに、『鬼滅の刃』や『スパイファミリー』など最新漫画の模写が多い)は、「東アジア反日武装戦線・狼」の大道寺将司の母親の遺志を継いで設立された「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が主催だったり、また忘年会などの場では、気がつけば隣に刑期を終えた「東アジア反日武装戦線」のメンバーがいたりと、じわじわと近づいている実感はあった。

 と、そのような特殊な人間関係ができたことによって、02年の日朝首脳会談の直後には私の家にガサ入れが入ったりと人生が順調におかしくなっていったのだが、これらの人々との関係が深まった理由のひとつに「彼らの子どもが自分と同世代」ということがある。

 例えば私は北朝鮮には1999年から2002年までに5回行っているのだが、なぜそれほど行くようになったかというと、「よど号グループの子どもたちと仲良くなったから」だ。

 1970年にハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派は、16歳から27歳までの9人。

 その後、もともとの恋人やさまざまな経緯を経て北朝鮮入りした日本人女性たち(本当に複雑な話なので各自調べてほしい)と結婚して20人ほどの子どもが生まれたのだが(現在は多くが日本在住)、北朝鮮で外国人だと結婚も就職も難しく、かといって日本に行きたいと言っても親は国際指名手配犯。北朝鮮生まれであるから日本国籍も戸籍も住民票も何もない状態。もちろんパスポートもないので外務省に一時渡航書を出してもらわねばならず、私が出会った時は、それも発行されずにこれからの人生を描けず20歳そこそこで宙ぶらりんの状況が続いている、ということだった。

 塩見さんが私を北朝鮮に誘ったのは、そんな状況に置かれたよど号の子どもたちに、日本の友人を持たせてあげたいということもあったようである。

 そうして初めての平壌行きで私は娘たちと意気投合。歳の差が数歳の3人とすっかり仲良くなり、彼女たちが日本に「初来日」する際には平壌まで迎えに行ったり、一時期は私の家に滞在していたりした。

 それが2001年のことなのだが、その前年の00年、日本赤軍の最高幹部である重信房子氏が国内で潜伏中に逮捕される。

 翌01年、重信氏の娘であるメイさんが無国籍状態から初めて日本国籍を取得、レバノンから初来日するという出来事があった。

 そう、「革命」を目指して海を渡った活動家の子どもの一部がこの頃、国籍を得たり日本に初来日したり、初めてその存在が明かされたりしていたのである。ちなみに私もよど号の娘3人もメイさんも、この時期、全員が20代。

 そんな面々が、面会のために訪れた東京拘置所の待合室で鉢合わせるなんてこともよくあった。

 このような経緯で、「政治の季節への関心」は「同世代の、非常に数奇な運命の子どもたちとの交流」にもつながっていったのだが、「こんな経験をしているのは日本で私くらいだろ」と、つい最近までいい気になっていた。が、「まさかこの人がこうだったとは!!」と度肝を抜かれたので、そのことを書きたい。

 といっても、その人と、私は会ったことがない。が、名前は知っていた。脚本家としてだ。

 ではなぜもろもろを知ったのかと言えば、彼女が最近、本を出したからである。

 タイトルは、『爆弾犯の娘』(ブックマン社、2025年)。著者は、映画『夜明けまでバス停で』(G・カンパニー、2022年)、『「桐島です」』(北の丸プロダクション、2025年)の脚本家である梶原阿貴(あき)さん。1973年生まれで私の2歳年上だ。本の帯には、以下のような言葉がある。

〈「黙っていたけど、あなたのお父さんは、役者でクリスマスツリー爆弾事件の犯人なの。あなたが生まれる前のこと。それからずっと、十四年も隠れて暮らしているの」

「見つかったらどうなるの?」

「逮捕されちゃう」

 左翼、革命、学生運動、自己批判、人民の子……父は、何を守りたかったのだろう?〉

 いやー、びっくりした。とにかく私はブッたまげた。同世代の著名な脚本家の父親が、まさか「爆弾犯」だったなんて。

著者情報

作家、活動家

雨宮処凛

あまみや かりん

1975年、北海道生まれ。作家、活動家。反貧困ネットワーク世話人。バンギャル、右翼活動家を経て、2000年に自伝的エッセー『生き地獄天国』でデビュー。自身の経験から、若者の生きづらさについて著作を発表する傍ら、イラクや北朝鮮へ渡航を重ねる。その後、格差や貧困問題について取材、執筆、運動を続ける。『生きさせろ! 難民化する若者たち』でJCJ賞受賞。著書に『一億総貧困時代』『「女子」という呪い』など多数。

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