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第4回 どんな平等がいいの?(前編)

川口好美(文芸批評家)

〝平等〟が希望の光だった時代

 こんにちは。今回は〝平等〟について考えましょう。
 内村鑑三が子どもだった頃、265年間続いた江戸時代が終わり、明治時代がはじまりました。外国からたくさんの知識や技術が、その時一挙に入り込んできました。江戸から明治への変化は、これまで当たり前だったことが当たり前ではなくなり、全部をいちから考え直さなければならないくらい、ビックリするような出来事の連続だったのです。5年前、元号が平成から令和に改められましたが、それとは変化のレベルが違います。当時は、自分たちの手で新しい時代を作るんだ、という意気込みがありました。現在から振り返って、明治時代を生きた人々が生き生きしていると感じられるのは、そのためかもしれませんね。
 なかでもとくにインパクトが大きかったのが〝平等〟の変化でした。でも、もともとあった〝平等〟が変化したわけではありません。この時はじめて、日本の人々は〝平等〟という考え方、ものの見方に出会い、〝平等〟こそ希望の光だと思ったのです。〝平等〟への期待は、古い決まりごとを打ち破り、作り変えていく、大きなエネルギーになりました。それは内村さんの人生にとっても同じでしたが、内村さんの場合、他の大多数の日本人とはすこし違った道をたどることになりました。キリスト教という独自の軸があったからです。でもその前に、わたしたちの今の暮らしに〝平等〟がどうかかわっているかについて、ざっと見ておきましょう。

そもそも〝平等〟ってなんだろう?

 小学校の運動会のリレー競技で、転んでしまった他の選手に思わず駆け寄り、一緒にゴールしてあげた子どもに大きな拍手が送られている場面を見かけたことがあります。〝みんな同じ〟なのが〝平等〟で、素晴らしいことだ、という価値観があることがここからわかります。でも一方で、受験のために勉強しなさいというセリフを口にする大人もたくさんいますよね。受験は、子どもに優劣をつける競争システムです。これだけでも、大人がどんな〝平等〟を求めているのか、〝平等〟が大切だと本気で思っているのか、よくわからなくなりませんか。そもそも〝平等〟はほんとうに良いことなのでしょうか。ここには、むずかしい問題が含まれているのかもしれません。
 こんな例を取り上げてみます。体育のマラソンの授業の前に、先生が生徒にこう伝えたとします。
「速く走れない人にはきっと仕方のない事情があるはずです。なのでこれからは、足が速い人はゴール前で遅い人を待って、一緒にゴールしてあげてください」。
 いかがでしょうか。わたしは、この指示には良くないところがあると思います。


 たしかに一緒にゴールすれば、結果としては〝みんな同じ〟になります。でも、想像してみてください。あなたが走るのが苦手だとして、本来ならばもっと前にゴールしているはずの誰かが、いつもゴールの前で自分を待っているとしたら、どんな気分になりますか。自分の足の遅さをあえて強調されているような気がして、余計に走るのが嫌になるかもしれませんね。逆に、あなたが走るのが得意だとすればどうでしょう。どうせ遅い人を待たなければならないのだから、最初から全力を出す気になれないかもしれません。そのうち、好きだった走ることを退屈だと感じるようになってしまうかもしれません。先生が提案した〝平等〟は、走るのが速い人にも遅い人にも喜びを与えていないと、わたしは感じます。
 わたしたちは〝平等〟を大事にする時、〝自由〟を邪魔者のように考えがちです。〝平等〟のためには〝自由〟を抑えるのは仕方ないと、つい思い込んでしまうのです。でも〝自由〟を無視した〝平等〟が良いかというと、全然そうではないことが、今の例からわかりますよね。先生はそのことに気づけなかったのです。だから、わたしはこんなふうに考えます。誰にでも得意なことと苦手なこと、できることとできないことがあります。それぞれが、〝自由〟に、自分の全力を出し切った上で、それでも〝平等〟だと感じられるルールや環境を作ることが大切なんじゃないか、って。

 ここから少し話を広げますね。
 なんらかの障がいをかかえていて、働くのは1日に2時間が限界だというAさんがいます。この人は働いた結果として1日2千円のお金を受け取ります。障がいがなくて、1日に8時間働くBさんがいます。この人は1日8千円のお金を受け取ります。これは〝平等〟でしょうか。時給が同じだから〝平等〟だと感じるかもしれません。でも、6千円の違いが積み重なれば、大きな差になりますね。Aさんにしてみれば、一生懸命、できるかぎりのことをしているのですから、これでは〝不平等〟だと感じて当然です。どうすればいいのでしょう。
 Bさんも1日に2時間だけ働くようにする、というのはおかしいですね。他の人と金額を合わせるために仕事を減らされることに、Bさんは不満を感じるのではないでしょうか。この〝平等〟は、Bさんの〝自由〟と両立していないのです。Aさんにとってもこんな〝平等〟は嬉しくないでしょう。
 では、Aさんに毎日6千円支給する仕組みを作るのはどうでしょう。障がいがあることはAさんの責任ではないのだから、仕事の量とは関係なく、足りない分のお金を配りましょう、ということですね。たしかにこの方がAさんは安心して生きられます。さて、これで一件落着でしょうか。
 この国では、このようなやり方で〝平等〟を目指すのが、政治の役割だと考えられてきました(「社会保障政策」や「福祉政策」、「再分配政策」などと呼ばれます)。後からお金やサービスを分配して、結果をできるだけ〝平等〟にする、ということですね。この考え方もとても大事だと思います。けれども十分ではない気がします。
 Aさんは仕事が好きで、ほんとうはもう少し長い時間働きたい。でも車いすでの通勤が大変で、エネルギーも時間も奪われてしまうために、それを諦めざるをえないのだとすれば、どうでしょうか。
 バリアフリー化などによってAさんの通勤環境を良くする配慮を行えば、Aさんは1時間長く働けるかもしれません。そうすれば、Aさんにとっては、1時間分のお金だけではなく、好きな仕事をする〝自由〟や、安心して移動する〝自由〟も得られるかもしれないのです。そして、これはBさんにとっても良いことですよね。Bさんも将来車いすを使うかもしれませんし、子どもをベビーカーに乗せて出かけるかもしれません。Aさんの〝自由〟はまわりまわってBさんの〝自由〟につながるかもしれないのです。こんなふうに〝平等〟と〝自由〟が両立するのが、理想的ではないでしょうか。
〝平等〟を実現しようとする時は、それが様々な立場の人たちの〝自由〟につながるように工夫すると良い。逆に、〝みんな同じ〟という結果だけに満足してしまうと、その〝平等〟が誰かの〝自由〟を奪っている可能性に気づけなくなる……。そう思うと、つぎつぎに疑問が浮かんできます。たとえば、日本全国の学校がよく似た内容の教科書を使って授業していれば、誰もが〝平等〟に教育を受けられていると言えるのでしょうか。選挙で投票する権利さえ与えられていれば、誰もが政治にかんして〝平等〟だと言えるのでしょうか。どちらの場合にも、工夫する余地がまだまだたくさんある気がします。※1

著者情報

文芸批評家

川口好美

かわぐち よしみ

1987年大阪生まれ。2016年、「不幸と共存──シモーヌ・ヴェイユ試論」(『群像』2016年12月号、第60回群像新人評論賞優秀作)でデビュー。2021年から、静岡県川根本町の小集落・沢間で「本とおもちゃ てんでんこ」を家族で営む。著書に『不幸と共存 魂的文芸批評』(法政大学出版局)がある。

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