第4回 どんな平等がいいの?(前編)
川口好美(文芸批評家)
AさんとBさんの例からわかるように、個人の〝自由〟を尊重しながら〝平等〟を実現するためには、それぞれの人がどんな〝不平等〟や〝不自由〟を感じながら暮らしているのかを、細かく考え、話し合って共有する必要があります。自分が他人と共に生きているこの社会について、広く深く調べる必要もありますよね。つまり、〝自由〟と両立する〝平等〟には、結果だけを同じにする〝平等〟とくらべて、多くの手間がかかるのです。その過程で、意見の対立も起こるかもしれません。
わたしの知っている範囲では、日本の人々はこうした手間を避けようとしがちです。その理由ですが、第二次世界大戦の後、日本全体が裕福になった高度経済成長期に原因があるのではないかという指摘があります。その頃に、国の「福祉政策」に任せていればじゅうぶん安心だという、サービスを受けるだけの〝お客さん〟のような態度を身につけてしまったために、日本人はみんなで話し合って物事を変えていく社会を作れなかったのではないか、というわけです。※2
さて、多くの人々が〝平等〟を実現しようと燃えていた明治時代にも、同じような問題はありました。内村さんも「一高不敬事件」という出来事に巻き込まれて、〝みんな同じ〟の欠点を痛感したのです。明治時代に戻りましょう。

怒りには二つのタイプがある?
内村さんはアメリカ留学から帰ってきて、いくつかの学校で先生の仕事をしました。そして1890(明治23)年に、東京の第一高等中学校(略して一高)の先生になります。一高は、国のリーダーを育てることを目的に作られた学校でした。生徒は新時代のエリートだったのです。
事件は翌年1月、教育勅語奉読式で起こりました。
教育勅語というのは、大日本帝国の教育についての基本の考えとして政府が国民に示した文章で、内村さんが一高の先生になったのと同じ年に、明治天皇睦仁(むつひと)によって発布されました。日本が大昔から天皇の「徳」の力によって治められていた国であることや、国民が心がけなければならない事柄が説明されています。※3
それを朗読する奉読式が、一高でも行われました。行事の中で、先生たちが順番に勅語の前に立ち、深々とお辞儀(これを最敬礼といいます)する場面がありました。教育勅語に最敬礼しなければならないのは、そこに書かれているのが天皇の署名入りのありがたい言葉だからです。ですが内村さんは、軽くしか頭を下げませんでした。
ところで、なぜ、全国の学校に教育勅語が配られたのでしょうか。
明治時代になり、新しい知識や産業の影響を受けて、これまでの武士中心のパワーバランスが崩れました。士農工商という職業による区別が曖昧になり、さらに、士農工商の外側の存在として差別されてきた穢多・非人という身分も廃止されます。どんな家や土地に生まれたかにかかわりなく自分たちは〝平等〟な日本人だ、という考え方がだんだん広がっていきました。※4
これは、明治政府にとっては都合の良いことでした。みんなが〝平等〟な国民としてまとまってくれれば、新たに作られた軍隊や工場の仕組みに協力してもらいやすくなるからです。でも、〝平等〟を求める主張がはげしくなってくると、人々の反抗心を恐れて、逆にそれを抑え込もうとしました。明治政府は、〝平等〟に政治を行うための国会を作ります、と約束しました。そうしておいて、国会が開かれるまでの期間に支配を強めたのです。天皇の土地と財産を増やしたり、学校での教育によって、国家に反抗しない国民を増やそうとしたりしました。そのためのアイテムが教育勅語だったのです。人々の、天皇にたいする尊敬を利用したのですね。
明治時代、ほとんどの人が天皇を心から尊敬し、生まれたばかりの自分の国を大切に思っていました。これは現在のわたしたちには理解しづらい感情ですね。「自由民権運動」という、明治政府に反抗する運動を行っていた人たちもそうでした。そしてそれはキリスト教徒も同じだったのです。
当時の日本のキリスト教徒には、親が武士だった人が多く含まれていました。本来キリスト教には、人間を神のように崇めてはならない、どんな人間も特別扱いしてはいけないという考え方があります。もちろん、天皇であってもそれはかわりません。しかし武士の子どもには、目上の人を敬い、一生懸命尽すべきだという、伝統的な武士の考えが受け継がれていました。殿様と家来の関係を思い浮かべてください。そのため、彼らの心の中で、神のもとですべての人間は〝平等〟だというイメージと、天皇のもとですべての人間は〝平等〟だというイメージが、すんなり重なりました。キリスト教を徹底的に追求した内村さんでさえ、明治天皇にたいしては特別な思いをもっていたのです。
だから気をつけてほしいのは、教育勅語の前に立った内村さんが、自分は天皇なんて偉いと思ってないよ、とアピールするために行動したわけではなかったということです。
天皇本人は会場にいませんでした。天皇自身が文字を書き込んだわけでもない紙きれに、みんな深々と頭を下げているのです。どうしてみんな、何も考えずに言われたとおりにしているのだろう。これってなんかヘンじゃない?……。内村さんはそう感じ、嫌な気持になったのでしょうね。それが、少し頭を下げるという中途半端な行動となってあらわれたのではないでしょうか。
これが「不敬」だということですぐに大騒ぎになったのです。「不敬」というのは、天皇にたいする敬意がなくてたいへん失礼だ、ということですね。
まず先生や生徒たちが内村さんの行動を問題視し、新聞で報道されて大ニュースになりました。毎日たくさんの人が内村さんの家に押し寄せてきて、内村さんを問い詰めました。頭の下げ方が良くなかったという理由で、まるで極悪非道の犯罪者かのように責め立てられたのです。一対一で話せばわかってくれる人も、集団になるとまったく聞く耳を持ちませんでした。しばらくして内村さんは病気にかかり、寝込んでしまいます。そんな状態でほとんど強制的に先生の仕事を辞めさせられた上に、妻のかずさんも病気になり、死んでしまいます。
内村さんは、この経験によって、怒りには二つのタイプがあることを知りました。一つは、騒々しくて、浅くて、短い怒り。もう一つは、静かで、深くて、長続きする怒り。この時内村さんを襲ったのは、第一のタイプの怒りでした。それは一瞬ではげしく燃え上がりますが、別の事件や出来事が起こればすぐに忘れられます。そのため、じっくり考えながら物事を変えていくためには、全然役に立ちません。内村さんは後に「浅い日本人」という文章で、こんなことを言っています。日本人は深く静かに怒ることができない。彼らは、長く深い怒りが、神のような正しい感情であることをわかっていないのだ、と。※5
わたしはこんなふうに思います。
〝みんな同じ〟の〝平等〟を目指すことは大事です。でもそれを実現するためのエネルギーが第一のタイプの怒りだけだったら、どうなるでしょうか。〝平等〟を目指していたつもりが、〝みんな〟に入らない人や、〝同じ〟からズレている人を憎み、集団で襲いかかる。そんな良くない行動に変化してしまうかもしれません。
個人の〝自由〟をないがしろにしない〝平等〟。他人の話をよく聞いたり、個人個人の思いや事情を深く理解した上で実現される〝平等〟。そのために必要なエネルギーは、静かで、深い、長い怒りなんだ。内村さんはそう気づいたのです。集団的なノリや盛り上がりの中にではなく、一人の人間の心の中に宿る、静かな怒りです。そのような怒りが集まれば、味方や仲間ではない他人とも共鳴し合い、協力し合いながら、〝平等〟を実現することができるかもしれない。良い方向に社会を変えられるかもしれない。事件を経て、内村さんはそのような〝平等〟を思い描くようになりました。
次回は、その後の具体的な足取りを、一緒に追いかけてみましょう。