第6回 国を愛するってどういうこと?(前編)
川口好美(文芸批評家)
日本についてたくさん考えた内村さん
みなさんこんにちは。今回も一緒に、〝これから〟を生きるためのヒントを、内村鑑三のことばから探ってみましょう。
内村さんはキリスト教の信徒でしたね。でも、不思議なことがあります。それは、「日本」というタイトルの文章が多いことです。岩波書店という出版社から、内村さんの全集が刊行されています。漁業を研究していた若い頃の論文から、亡くなる直前に書かれた文章まで、内村さんが執筆した膨大な作品や新聞記事が、ほとんどすべてそこに網羅されています。その最終巻(第40巻)に「索引」があります。それを見れば、『内村鑑三全集』のどの巻の何ページに、どんなタイトルの文章が収められているかが、一目でわかります。
さて、索引の「に」の項に差しかかると、〈日本〉という文字が目に飛び込んできます。たとえば、「日本国と基督」、「日本国の祈求」、「日本人の研究」、「日本の天職」……。もっともっと、数え挙げればキリがないくらいあります。内村さんが日本や日本人について、長い間考え続けていたことが、文章のタイトルからもわかります。「き」の項に〈キリスト(基督)〉ではじまるタイトルが多く、また「せ」の項に〈聖書〉ではじまるタイトルが多いのは、当然ですよね。でもなぜ、キリスト教という外国に由来する宗教を生きる糧にした内村さんが、日本のことをこんなにもたくさん書いたのでしょうか。
理由の一つは、日本が開国したばかりの新しい〝国〟だったことにかかわっています。この先、日本はどうなっていくのだろう、自分たちはこの国をどうしていけばいいのだろう……。これが世の中の話題や興味の中心だったので、内村さんも主張する機会が自然と多くなっていったのでしょう。でも、そこには他にも、内村さんらしい日本への思いがあったはずです。言いかえると、内村さん独特の愛国心やナショナリズムが関係していたにちがいありません。
とはいえ、いきなり愛国心やナショナリズムと言われても、わかりづらいですよね。いつもどおり身近なところから近づきましょう。少し恥ずかしい、わたしの過去の経験を聞いてください。
第2回でお伝えした、高校生の頃の話です。わたしの家は〝家庭〟ということばから想像される安心感からかけ離れた状態で、わたしの心はすさみきっていました。高校生なのに、お酒を飲んで人の家に泊めてもらうことも多かったのですが、学校に行くと、明るく振舞い、教室を盛り上げていました。友だちの記憶には、すごく面白いけどなんかアブナイ奴、として残っているのではないでしょうか。
わたしは自分が所属するクラスを良いクラスにするために一生懸命すぎるくらい頑張っていました。具体的には、イジメがなく、居心地の良いクラスを目指していたんです。大阪の学校だったこともあり、いわゆる〝いじる〟タイプの笑いも起こるのですが、いじりが特定の人に集中しないように気を遣い、みんなに光が当たり、活躍できるように配慮していました。これだけなら、素晴らしい取り組みですよね。
自分には、自分自身の環境を変えられる力があるから、まだ大丈夫なんだ。親の病気のことで困っていたその時のわたしは、居心地の良いクラスを作ることによって、そう信じたかったのだと思います。でも、それが異常だったと感じるのが、他のクラスでイジメがあるという噂を耳にした時に、心の中で興奮し、強い満足感を覚えたことです。いじめている人を責める気持でもなく、いじめられている人を心配する気持でもなく、〝ほら、あいつらにはできないだろ〟という優越感でいっぱいになったのです。

つまり、わたしが目指していた〝良い〟は、他の集団と比較することでしか満たされない、不安定なものだったのですね。自分の〝良い〟状態に心から満足している人は、他の人の〝良い〟状態をも望むはずですが、そうではなかったのです。いったい、わたしはなにを求めていたのでしょうか。
じつは、わたしが求めていたのは、安全なこちら側(内部)と、危険なあちら側(外部)というイメージ、はっきりした内と外の線引きだったのかもしれません。そんなことのために頑張るのは、的外れで、偽善的ですよね。でも、歪んだかたちで表現するしかなかったとしても、その頃のわたしが必死に〝良い〟なにかを探していたことはたしかですから、ちょっとかわいそうだとも思います。
ナショナリズムってなんだろう
英和辞書で、「ナショナル(national)」という単語を調べてみますね。〈国の〉というのが基本の意味です。ナショナル・パークは国立公園。ナショナル・アンセムは国歌。その下に「ナショナリズム(nationalism)」という単語も載っていましたので、意味を書き写してみます。
①民族主義、国家主義。→民族または国家の自主的独立を主張する政治的主義。②国粋主義。→自国の文化・伝統を他国のものよりすぐれたものとし、排他的にそれを保持拡大しようとする主義 ※1
たとえば、外国に支配され、植民地として統治されている人々が、自分たちはよその国や民族に支配されたくない、自分たちのことは自分たちで決めたいと願った場合(①ですね)に、自分たちが国や民族としてひとまとまりの集団である根拠を示し、他とのちがいを際立たせようとします。その根拠として、自分たちのオリジナルな伝統や文化が見いだされるのです(②ですね)。こんなふうに①と②は連動し、支え合う関係にあります。しかし、②の、「排他的にそれを保持拡大しようとする主義」にかたより、それがふくらみすぎると、ナショナリズムは排外主義と呼ばれるものにかわっていきます。「排外」もちょっとむずかしいことばなので、こんどは手元の小さい国語辞典で意味を調べます。このように説明されていました。
外国の人や思想・事物などを、嫌って排斥すること ※2
自分たちの伝統や文化のオリジナリティや立派さを誇る感情が、自分たちと異なる伝統や文化を持つ国や人を見下し、差別する感情につながってしまう、ということでしょうか。現在の日本では、ナショナリズムということばには、この悪いイメージがぴったり貼りついています。ナショナリズムを主張する人を、ナショナリストや愛国者と呼ぶのですが、そういう人は差別的な排外主義者だ、と判断されがちなのです。
みなさんは、外国出身の人を邪魔者扱いして面白がったり、韓国や北朝鮮、中国といった近くのアジアの国々をまるで悪魔みたいにののしる、ネットの動画や雑誌の差別的な見出しを目にしたことはありませんか。国や民族の独立を大事にし、文化や伝統を誇ること自体は、良いことでも悪いことでもなく、個人の自由です。ただ、他人や他の国を差別するのが愛国者であるのなら、ナショナリズムは悪いものだと思われても仕方ありませんね。
でも考えてみれば、これってヘンな現象だと思いませんか。①と②が連動することはよくわかります。そして自分たちの独立のために一生懸命、支配者と闘っている人が、②を主張しているうちに、結果として排外的な感情を持つことも、じゅうぶん理解できます。ただ、国家としても民族としても独立しているはずの日本に、差別的な愛国者がたくさんいるというのは、なかなか理解しづらい状況ですよね。※3
このような現象が目立ってきたのは、今から20年以上前の、2000年前後です。そのことを調査した、『〈癒し〉のナショナリズム』という本があります。著者の一人である小熊英二さんは、日本の排外的なナショナリズムが生まれる背景について、こんなふうに分析しています。
現在の排外的なナショナリストは、「健全な常識」が今の社会にまったく見つけられないことへの不安から、ナショナリズムを求めているのだろう。排外的なナショナリズムは、このまま社会のなかで家族や友人といった人間関係が崩れていけば、さらに激しくなっていくだろう。 ※4

「健全なナショナリズム」とはどのようなものか、イメージしてみましょう。良い文化や伝統を保ち、将来に残すためには、世の中にある程度の余裕があって、時間がゆったり流れている必要がありますよね。ですので、ナショナリズムは、急激な社会の変化はみんなの幸せにつながらないと考えて、新しさだけを追い求めることをいましめる思想でもあるのです。