「教養」について考えるべきこと
前田英樹(批評家)
「若(も)し夫(そ)れ美味は姑(しば)らく口に可なりと雖(いえ)ども、然(しか)れども之を嗜(この)んで止(や)まざるときは、則ち必ず人に害あり。前輩の所謂(いわゆる)異味(いみ)を嗜(この)む者は、必ず異疾(いしつ)有りと、是(これ)なり。論語の道に於(お)けるが若(ごと)き、乃(すなわ)ち食中の嘉穀(かこく)なり。之を四海に施(ほどこ)して準(じゅん)有り、之を万世(ばんせい)に伝えて弊(つい)え無し。患(うれ)うる所は人の知らざるに在るのみ」(『童子問』「巻の上」『日本古典文学大系97』岩波書店 1978年)。
どうでしょう、言葉はむろん古いものではありますが、その意味は、今日すこしも古くはなく、むしろいよいよ新しい。食べ物に当てはめて、『論語』の価値を説いているのは、物の喩えではありません。まさにそのままの意味、並行する真実を説いているのです。五穀、とりわけ米ですが、これらが満たすものは、単に胃袋だけではない、人の心身をめぐる命の力そのものである。健やかな心身は、おのずからにそのことを知っています。よって、五穀は、飽きることなく食べ続けることができる。
人が美味、珍味として好むもので、毎日三度食べて飽きないものがあるだろうか。そのように食べて、体を損なわぬものが、あるだろうか。「前輩」とは先人のことですが、その先人も言っている、「異味」を好むものは、必ず奇妙で厄介な患いに陥ると。心も同じことだと、仁斎は言うのです。

言葉や記号で作られた世界には、異味珍味があふれている。誰かが企んで生み出すのではないでしょう、手に触れる物を離れ、生きたこの体を離れて浮遊する意味の世界は、絶え間なく、さまざまなる異味珍味を生み出し、それを、はなはだ美味と感じさせては心の五官を狂わせる抽象の機械、目的なき自動装置であります。そういう機械が日々生産する限度のない欲望は、人の世に激しい妬みと争い、苛立ちと理由のない恐怖とを流し込んで、私たちの心を苦しめています。
世には、喜々としてこのような機械の部品となり、人心を安んじさせまいと働き続ける勤勉な馬鹿者らが、驚くべき数となって群れを成している。このことの危険に、しかと目を開き、明瞭に気づいて生きている人は、まことに少ない。由(よし)もない観念の異味珍味に、心が酔い尽くしているからでありましょう。このまま酔い続けておればどうなるか。言うまでもありません。人間種は、自身が生む巨大な不安から、互いに引き起こす内側の争いによって滅ぶ。伊藤仁斎は、十七世紀の京都に住んだ独学の儒学者ですが、人類を待つこの程度の未来は、すでにはっきりと見通していたでしょう。
仁斎が、『論語』の本文に、平易近情なるその言葉に還れと説いたのは、学問上の主張などではない、精神の五穀に還れ、という深い意図、不撓(ふとう)の志からです。食物がもたらす健やかさと、人が養う思想のほんとうの強さとの間には、どうも根本のつながりが横たわっているようです。
絶え間なく何ものかを養うということ、このことは食物にも思想にも共通してあり、ふたつは深く絡み合い、やはり同じ根を持つものなのでしょう。近代の都市文明は、このことをまったく無視することで巨大に打ち立てられてきました。贅沢で過剰な欲望の生産と消費、これを争うことこそ、近代が持つ本有の性質でありますから。
さて、教養という言葉に戻ってみましょうか。教養とは、語源から言うならば、田畑で食物を養い、それを食べて身を養い、そこからおのずからに育つ心を大切にすることにほかなりません。教養は、インテリたちがこわばった筆で振り回す理屈とは、何の関係もないのです。人の世に教養が高くある時は、人はほんとうの教養が何かという話を少しもしません。世の教養が枯れゆけば枯れゆくほど、人々はいよいよ声高く、教養のあるなしを競い合い、由なき議論を戦わせて、みずから衰弱してゆくのです。
このようなことは、たとえば仁斎の『童子問』に、すでにはっきりと書いてある。そこにある語気、語調には、異論を寄せつけぬ力があり、深さがあり、頷かされるほかない真直ぐな、優しい明晰さがあります。「教養」につき、これ以上、何を言うことができるでしょう。
著者情報
批評家
前田英樹
まえだ ひでき
1951(昭和26)年、大阪生まれ。中央大学仏文科卒。立教大学仏文科教授、同、現代心理学部映像身体学科教授を歴任。著書に『沈黙するソシュール』『倫理という力』『独学の精神』『定本 小林秀雄』『言語の闇をぬけて』『セザンヌ 画家のメチエ』『信徒 内村鑑三』『日本人の信仰心』『民俗と民藝』『ベルクソン哲学の遺言』『剣の法』『小津安二郎の喜び』『批評の魂』『保田與重郎の文学』などがある。