「呪いの言葉」に支配されず、政治参加に向けた私たちの言葉を持とう
上西充子(法政大学キャリアデザイン学部教授)
政治をめぐる「呪いの言葉」の2つ目は、「市民の政治参加を萎縮させ、あきらめを誘う呪いの言葉」だ。「デモに行くより働け」「デモで世の中は変わらない」「デモに行くと就職できなくなるよ」「デモは迷惑」「売名行為だ」「左翼」「反日」「〇〇も知らないくせに」「応援していたのに残念です」「選挙で勝ってから言え」「だったらお前が国会議員になってみろ」等々、私たちが政治に関わる行動を取ったり発言を行ったりすると、それを否定しにかかる「呪いの言葉」がSNS上で見知らぬ人から投げつけられる。そういう言葉を投げつけられることが予想されるため、行動や発言を控える人も多いだろう。
しかし、投票に行くことだけが容認され、その他の政治的な行動や発言は叩かれるというのは、考えてみれば異常なことだ。私たちには言論の自由も集会の自由も憲法によって保障されているし、日頃から政治について考える機会があった方が投票行動も適切に行えるだろう。なのに、権力者の意に沿わない行動や発言が、目障りなものとして、誰だかわからない匿名の人たちによって、寄ってたかって口汚く非難される。なぜか。
権力を獲得した側からすれば、選挙とはみずからの権力が脅かされる可能性がある節目だ。自分たちに投票してくれる人たち以外には実際のところ、投票には行ってほしくないだろう。そのため、日頃から市民には、自分たちと対抗する勢力への投票につながりそうな形での政治的な問題意識は、持ってほしくないだろう。
そのような権力者の意向と、声を上げることを萎縮させるような「呪いの言葉」の氾濫に、直接的な関係があるかどうかは不明だ。しかし、「おかしい」と声を上げる者はおびえを乗り越えて発言しなければならないのに対し、「うるさい」と批判する側はおびえとは無縁だ。そこには明らかに非対称的な関係がある。
2000年夏の第42回衆議院議員総選挙の際、森喜朗首相(当時)は投票日5日前の講演で有権者の投票態度について、「まだ決めていない人が四〇%ぐらいある。そのまま(選挙に)関心がないといって寝てしまってくれれば、それでいいんですけれども、そうはいかない」と発言した(朝日新聞2000年6月21日朝刊)。この発言は問題となり、自民党はこの選挙で大きく議席を減らしたのだが、日頃は口に出さないだけで、それは政権与党の本音だろうと思われる。
そして、自民党が民主党から政権を奪還し、第二次安倍政権を生み出すこととなった2012年の第46回衆議院議員総選挙以降、下記の総務省のグラフに見る通り、投票率は低迷傾向を強めており、与党のねらい通りとなっているように見える。特に若い世代の投票率が低い。それは「政治に関わらない方がいい」と思わせる「呪いの言葉」がネット上にあふれていることと、無関係ではないと私は思う。

政治参加に向けた「私たちの言葉」を
こういう状況は変えていく必要がある。誰が発しているのかも判然としないような定型の「呪いの言葉」に思考を誘導されたり萎縮させられたりしている状況は、健全ではない。私たちは主権者として、みずから社会を変えていく力を持っており、社会をよりよい方向へと変えていく責任がある。
しかし、政治をめぐる「呪いの言葉」があふれている一方で、「私たちが政治に関わることが大切だ」と思わせるような言葉は、今の日本においては、とても少ない。
言葉は認識を形づくる。「政治には関わらない方がよい」と思わせる言葉が意図的に流布され、そのような言葉によって私たちが政治から遠ざけられている現状を、私たちが「おかしい」と認識でき、自分たちが政治を変えていく主体であると認識できる言葉が、私たちには必要だ。
ラッパーのECDは、2012年2月20日に「経産省別館原子力保安院前抗議行動」で、「言うこと聞かせる番だ俺たちが」とラップを披露した。
「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」は関係を断とうとする言葉。「言うこと聞かせる番だ俺たちが」は関係を持とうとする言葉。
と、彼は2012年12月20日にツイートしている。
2018年4月に財務省セクハラ問題で麻生太郎大臣が「はめられた可能性がある」と二次加害につながる発言を平然と行ったときには、新宿駅東口・アルタ前で「#私は黙らない0428」と題した集会が若者たちの手によって開催された。その中でフェミニストの福田和香子は、
私は、私が誰であるのかを他の者に決めさせない。
と語り、
あなたの考えは、あなたの言葉は、あなたの行動には、常にパワーがある。何かを変えるだけのパワーが、いつも備わっている。必ず覚えておいてほしい。
と訴えた。(福田和香子ブログ:fem Tokyo「#MeToo #私は黙らない0428」より)
次にあげるのは政治をめぐる文脈の中で語られたものではないのだが、政治参加を支え、促すことにもつながりうる2つの言葉を、ここに加えておきたい。私が『呪いの言葉の解きかた』の中で紹介した言葉だ。
1つは、やまだ紫が1981年から1984年にかけて発表したコミック『しんきらり』(再録として、やまだ紫選集『しんきらり』小学館クリエイティブ、2009年など)の最後の言葉だ。
「妻」「嫁」「家」「親」……そんな言葉に縛られることへの違和感を抱え続けた専業主婦のちはる。パートに出て、後にその職を失う、そういう経験のあとで彼女は、穏やかな表情で夫に向きあって、こう語る。
仕事をしてみるようになって 気が付いた……
わたしは自由だったんだ
押し付けられた役割の呪縛に苦しんできたちはるだが、実はみずからその呪縛の中にはまっていたことに、気づいたのだと私は思う。
もう1つは、海野つなみのコミック『逃げるは恥だが役に立つ』第9巻(講談社、2017年)の土屋百合の言葉だ。アラフィフの百合が親子ほども年が離れた男性の思いを受け入れて、「あなたが好きなの」と口にすることを決意するときに、彼女は心の中で、こうみずからに語りかける。
周りに遠慮せず 自分の判断で自由に生きて
失敗したらそれも ちゃんと受け止める
それが大人ってもんでしょ
あたしがなりたかったのは
そういう大人でしょう
こういう言葉を前にすると、政治をめぐる数々の「呪いの言葉」が、一挙にその効力を失う。そして、そんな呪いの言葉で思考を誘導したり萎縮をねらったりすることの卑劣さが、浮かび上がってくる。
私たちを、無意識のおびえから解放する言葉。私たちが、みずからの声を取り戻すことにつながる言葉。私たちに、見えていなかった別の未来を展望させる言葉。そういう言葉を、私たちはさらに、意識的に豊かにしていく必要がある。一人ひとりが、これは私の言葉だと思えるような、そんな言葉が私たちには必要だ。
著者情報
法政大学キャリアデザイン学部教授
上西充子
うえにしみつこ
1965年、奈良県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部教授。専門は労働問題。東京大学大学院経済学研究科第二種博士課程満期退学後、特殊法人日本労働研究機構(現在は独立行政法人労働政策研究・研修機構)研究員を経て、現職。雑誌論文に「裁量労働制を問い直せ」(『世界』2018年5月号)、共著に『大学生のためのアルバイト・就活トラブルQ&A』(旬報社、2017年)などがある。