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作家・目取真俊が語る。教科書には書かれない沖縄戦の“実相”

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

目取真 沖縄島の北部・本部(もとぶ)半島の八重岳で戦った父は、小銃が重くて木の股や石に載せて撃ったといいます。日本の小銃は一発撃つごとに薬莢(やっきょう)を出さないといけない。しかし、下から攻めてくる米軍はパラパラと連続して撃ってくる。とても勝てない、と思ったといいます。また、擲弾筒(てきだんとう)を使って攻撃していた時、一緒にいた上原上等兵という方が目の前で射殺され、自分は米軍の一斉射撃の中を走って逃げたとも話していました。

 ――内地出身の大人の日本兵の中に、沖縄の中学生がいきなり放り込まれての実戦はかなりの苦役であったことはいくつかの文章でも散見されます。

目取真 以前、鹿児島県を訪ねた際、沖縄戦に参加した元陸軍兵の方から話を聞いたことがあります。摩文仁(まぶに)の戦場で米軍と撃ち合っているとき、弾が切れると中学生が補充していた。米軍はそれを知って狙い撃ちするので、中学生は怖くて弾を抱えたまま壕から出ることができない。弾が切れた日本兵は、「早く持ってこい。何をやってる、馬鹿野郎」と怒鳴りつける。それで意を決して出たら撃たれて倒れる。次の中学生も怒鳴られ、走って出て行き撃たれる。元陸軍兵の方は、その様子を見て「ああ、この世の地獄だ」と思ったといいます。
 また、別の元陸軍兵の方はこう話していました。「戦争というのはね、現役兵が戦うものなんです。体力がある20代の若者が、現役兵として一緒に生活をし、厳しい訓練を積んで、しっかりした指揮・命令の下で戦ってはじめて、ちゃんとした戦闘になるんです。素人を集めてにわかに部隊を作っても、戦えるわけがないんです」。中学生たちを戦場に動員したことが、いかに無謀なことだったか。最前線で戦った兵士の言葉として、強い説得力を感じました。その方はまた、次のようにも話していました。「沖縄戦のことを激戦という人がいますけどね、激戦というのは同じくらいの兵力の軍隊が戦うから激戦になるんです。沖縄戦は激戦じゃなかった。私たちは一方的に米軍にやられていたんです」と。これが当時の現役兵の実感ですよ。きれいごとなんてどこにもない。そういう現実を学ばないといけない。

 ――その後、お父さんはどう動かれたのでしょうか。

目取真 4月16日に米軍が伊江島に上陸し、本部半島にいた日本軍は、名護の多野岳(たのだけ)に敗走します。山中で遊撃戦(ゲリラ戦)を戦うたてまえですが、実際は敗残兵として山中に隠れるわけです。父も鉄血勤皇隊の仲間と多野岳に移動します。ところが、仲間とはぐれてしまい、山の中で会った日本兵5人と行動することになった。多野岳のふもとで女性が父に、「軍服を着ていたら米軍に殺されるから」と言って、息子さんの着物を着せてくれたそうです。多野岳から名護の町に下り、三中(沖縄県立第三中学校)の敷地に作られた米軍のゴミ捨て場で食べ物を拾い、日本兵たちに持ち帰っていたそうです。小柄な14歳の子どもですから米兵は怪しまない。ある日、煙草を拾ったそうです。祖父が煙草好きだから、と袋に入れていたら、父が食料を探しに行っている間に、日本兵が煙草を見つけ、「どうしてこんなのを隠してるんだ」とすごく怒られたそうです。それで父のことを疑うようになったんでしょう。夜、父が横になっていると、日本兵たちの話し声が聞こえたそうです。「こいつは山を下りているときに、米軍に通報して、自分たちの居所を教えるかもしれない。今、ここで殺そう」と話していた。震えながら寝たふりをして聞いていると、1人の日本兵が「そんなことはできない」と止めたそうです。もし止めていなければ、殺されていた。

米軍より恐れられた「日本軍」

 ――日本軍が動員した少年までも、手にかけて殺してしまうことを日常の中で謀議する。そういう空気であればこそ、住民虐殺もまた同様に常態化していたということですね。

目取真 今帰仁村でも「住民虐殺」は何件も起こっています。海軍の魚雷艇部隊と特殊潜航艇部隊が今帰仁村の運天港に配備されていました。1945年4月の初旬に米軍の攻撃でやられて、陸戦隊になって八重岳の陸軍と合流するんです。この海軍部隊があちこちで住民を虐殺しています。本部の国民学校の校長だった照屋忠英(てるや・ちゅうえい)さんも軍に協力したにもかかわらず、スパイ容疑で殺されました。
 当時の沖縄の住民は日本軍を「友軍」と呼んで信頼し、協力してきた。にもかかわらず、敗残兵となった彼らは、昼間は山中に隠れ、夕方になって米軍が集落からいなくなると、山から下りてきて住民虐殺や食料強奪をくり返した。今帰仁では海軍の部隊に謝花喜睦、謝花喜保さんが切り殺され、直後に私の祖父の所に「お前も狙われているから逃げろ」という連絡が来て、祖父は逃げて助かっています。私の叔母の話では、夕方になると日本兵が軍刀をじゃらじゃらさせながら家に来て、祖父の居場所を聞いていたといいます。

 ――米軍よりも日本軍が恐れられていたという証言は本当に至るところで聞きますが、かように住民を襲った背景には何があったのでしょうか。

目取真 1944年10月10日、沖縄全土に米軍機が大規模な空襲を行います。その前日、牛島満(うしじま・みつる)司令官以下、長参謀長をはじめ沖縄各地の軍幹部が兵棋演習のため那覇に集まり、夜は宴会を開きます。軍幹部たちは朝まで酒を飲んで寝込んでいたところ、早朝から「十・十空襲」(※6)が始まります。軍幹部たちの油断と対応の遅れが被害を大きくしました。当時、牛島司令官は那覇の大道(だいどう)にあった旅館に宿泊していて、空襲の翌日そこで会議が開かれ、数人の兵士が植木などの手入れをしているふりをして庭でスパイを警戒していたそうです。その役目を務めた兵士に話を聞いたことがあります。軍の幹部たちは、演習や宴会の直後に空襲があったことに注目し、沖縄の住民にスパイがいて米軍に知らせたのではないか、と話しているのが聞こえたそうです。

 ――住民は潜在的なスパイだという意識が軍に刷り込まれていたわけですね。

目取真 日本軍は、米軍の情報収集能力の高さを認識できず、米軍が的確に攻撃するのは沖縄の住民がスパイをしているからだ、と考えるわけです。そのために今帰仁村をはじめとした北部地域では住民虐殺が相次ぎます。今帰仁村の住民は米軍によって、東側半分は羽地村(はねじそん)の田井等(たいら)に収容され、西半分の人は、今のキャンプ・シュワブ(※7)がある大浦崎に収容されます。米軍の記録には、日本軍の「住民虐殺」があったから、住民を保護するために収容したとなっています。このような体験が「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を生み出します。令和書籍は、そういう沖縄戦の実相を教科書に載せたくないわけです。

「十・十空襲」で壊滅的な被害を受けた那覇

「玉砕」「集団自決」の実態

 ――令和書籍の教科書では、「逃げ場を失って自決した民間人もいました」との記述がなされていますが、自決を強要した日本兵という存在が抜け落ちています。集団自決の強制は、2007年3月の教科書検定で消されて以来、そのままです。

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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