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香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(前編)~私たちは「生まれてこないほうがよかった」のだろうか?

香山リカ(医師)

森岡正博(早稲田大学人間科学部教授)

(構成・文/仲藤里美)

森岡 「誰が産めと頼んだ」は「生まれてよかったと思わせてくれ」の裏返しともいえます。対して「生まれてこなければよかった」という嘆きは、それよりももう一段深いところにあるのではないかと思うのです。
 そもそも、哲学的な観点から考えるならば、「なぜ私を産んだんだ」「誰が産めと頼んだんだ」という言葉を投げかける相手は親でよいのか、という問題があります。親ができるのは卵子と精子という細胞を結合させて身体を生成することだけであって、実存的に生きている「私」というものは、親に生み出されたわけではありません。「私」がどこから生まれてきたのかというのは、親、あるいは人間という範疇を超えた問題だと思うのです。

香山 たとえばキリスト教などの一神教においては、人は「神の子」ですよね。肉体的には親の子であっても、生まれてきたのは神のご意思、ご計画だということになる。そうすると「なぜ産んだんだ」と恨む相手は神、ということになるのではないでしょうか。

森岡 そうですね。神という存在にリアリティがある世界ならば当然そうなるのでしょう。ところが、神を喪失した近代社会に生きる人には、その対象がなくなってしまっている。それで、代わりに親に恨みを向けているということなのかもしれません。
 そう考えると、誰に恨みを向けるのかというのは、もう宗教的な次元の問いになってきますよね。本来はこうした「なぜ私は生まれたのか」といった話は、人間を超えた、宗教が扱ってきた次元を取り込まなくては本質的な議論ができないのだと思います。そこから目をそらして、脱宗教的な次元でのみ語ろうとするのが反出生主義の限界だと思うし、そこの部分はもっと議論されるべきではないでしょうか。

「人のいなくなった地球」を、人間は目撃できない

香山 またベネターは、地球上に存在すべき人間の数は「ゼロ」だと言っていますよね。人間は「産まない」ことを選択し続けることによって絶滅に至るべきだ、と。
 環境保護の視点から、同じようなことを主張する人たちがいます。子どもは好きだけど、地球環境がこのまま悪化していくのであれば産みたくないという人もいますし、イギリスの生態学者、ジェームズ・ラヴロックは自身の100歳の誕生日にあわせて刊行した『ノヴァセン』(邦訳はNHK出版、2020年)で、次に来るのはサイボーグが支配する世の中であり、そのときには人間は存在しないと書いています。「人間が早晩いなくなるだろう」「いないほうがいい」という、この発想は反出生主義と重なるものなのでしょうか。

ジェームズ・ラヴロック著『ノヴァセン 〈超知能〉が地球を更新する』(藤原朝子監訳/松島倫明訳、NHK出版、2020年)

森岡 人間の生と死を理性のコントロール下に置きたいという世界観をとっている点では近いのではないでしょうか。
「人類がいないほうが地球にとって望ましい」というのは、理性による判断ですよね。それを実現することがもっとも望ましいというのは、ある種の理性主義といえると思います。
 反出生主義もそうで、「子どもを産まないことが人間にとってもっとも望ましい」という判断は理性がしているわけです。それに「人間のいない社会」は、社会システムやテクノロジーを人間が理性的にコントロールすることで達成されるわけですから、やはり人間の理性による生と死のコントロールなんですよね。

香山 「人が誰もいなくなった後の地球」も、人間が繰り返し想像し、表現してきたものですよね。特に核の危機が高まった冷戦時代には、多くの映画や小説がそれを描いた。人間が誰もいなくなって、静寂が広がって……という情景を想像しているのは人間ですが、実際に人間がいなくなってしまえば、その静けさを味わう人は誰もいないわけですよね。

森岡 そうなんです。だから、これは結局は虚偽の世界に過ぎません。人間がいなくなった世界を想像するという設定そのものが、人間の感性と理性があるからできるわけであって、そこで見える世界というのは、人間中心主義からの脱却のようでいて、実は非常に人間中心的だといえます。
 人間がいなくなった世界を想像するというのは、人間が自分たちでつくった箱庭の内部に、さらに「人間がいない世界」をつくって、それを上から覗き込んでいるに過ぎない。そのことは、自覚しておくべきだと思います。

反出生主義、歴史修正主義と「潔癖ラディカリズム」

森岡 こう見てくると、反出生主義が注目を集めているというのは、コアな反出生主義の周りに、ニュアンスが微妙に異なるいろいろな意見が集まってきて、ひとかたまりの団子のようになっているということなのかもしれない、と思います。

香山 そしておそらく、コアな反出生主義よりも、その周りに集まっている「団子」のほうがずっと大きいのではないでしょうか。つまり、反出生主義の「生まれてこないほうがよかった」という主張に対して、その本質を深く考えるというよりも、何となく雰囲気で「ああ、そうだよね、私も生まれてこないほうがよかった」と感じる人たちがたくさんいるということ。これはとても現代的な事象だと思います。

森岡 そこには現代の、痛みのようなものに非常に過敏になっている状況があるように思います。
 苦痛も快楽も存在するよりも、両方とも存在しないほうがいいというのがコアな反出生主義ですが、それはつまり、ほんの針のひと突きの痛みがあっただけで人生はすべて意味がないものになってしまうということ。一点でも汚れてはならないという、潔癖主義のような感じですよね。そして、100年、200年というタイムスケールで見た場合に、いわゆる先進国の社会全体がそちらの方向に進んできているのは明らかではないでしょうか。

香山 強迫的な清潔志向のようなことですか。

森岡 そうです。汚れがないこと、清潔であることをよしとして、あらゆる汚れや痛みを排除していく。私はこれを「無痛文明」と呼んでいるのですが、そうして痛みをなくす方向に社会全体が大きく動いているという状況が、先進国を中心にずっと続いてきた。それが、「生まれてこなければよかった」とか「苦しむ存在を生み出すのはぜったいに良くない」という言葉に呼応する人が多くなっている背景の一つになっているような気がします。
 針のひと突きのような小さな痛みであっても、経験しなくてはならないのなら生まれないのが一番いい、あるいは子どもには絶対にそんな痛みを与えたくないから産むべきではない。そうした考えに惹き寄せられるのが現代なのかもしれません。これは古代からありますが、現代ではより現代的な姿をとっていると思います。

香山 まったく違う話かもしれませんが、私は「『慰安婦』問題はでっち上げだ」とか「南京大虐殺はなかった」とかの、歴史修正主義的な主張をする人たちの話を聞いているときに同じようなことを感じます。「日本はもう何千年も前から今に至るまで、一点の間違いも起こしたことがない素晴らしい国だ」という、無謬性へのこだわりですね。だから過去の過ちを指摘されると許せなくて、烈火の如く怒りだす。私は、そういう過ちがあっても、「それはそれで認めて、二度とやらないようにしよう」と考えればいいと思うのですが、そうはならないんですね。日本は光り輝く真っ白な国でなければならないというこだわりがすごく強い。

森岡 よく分かります。これはまた別の現象ですが、2020年には11月のアメリカ大統領選をめぐり、トランプとバイデン、両候補を支えるグループが超二極分化したでしょう。白か黒かで、中間はないという感じ。そうしてラディカルな両極に引きずられていくと、行き着く先はやっぱり「こちらが正義であって、正義には一点のシミも付いていてはいけない」という潔癖主義でしかない。だから、どんな小さいものであっても「お前、シミが付いてるじゃないか」と指摘されると、そんなのは幻想だとか間違いだとか、何をやってでも否定しようとするわけです。
 コアな反出生主義も「生まれてきたらわずかであっても苦しみはある、だったら生まれてこない、産まないのが一番なんだ」という、いわば潔癖ラディカリズムの表れだといえるかもしれません。
 つまり、さまざまな場面で二極分化、ラディカリズムが現れてきて、人々がそれに引っ張られていくというのが、現代的な言論や思考の動き方になっている。反出生主義も、その中で多くの人に注目されることになっているような気がします。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

早稲田大学人間科学部教授

森岡正博

もりおか まさひろ

1958年、高知県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学、大阪府立大学にて博士号取得。哲学、倫理学、生命学を中心に著述活動を行う。著書に『生命学に何ができるか』(勁草書房)、『無痛文明論』(トランスビュー)、『草食系男子の恋愛学』(MF文庫ダ・ヴィンチ)、『まんが 哲学入門』(講談社現代新書)、『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房)など多数。

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