信仰とカルトのはざまで
木村友祐(小説家)
すると、驚いたことに、兄もまた旧統一神霊協会のセミナー合宿に行ったことがあると話しだした。兄を身近で知っている者には意外すぎて笑ってしまうかもしれない。兄はハーレー乗りで、怒れば大学のボクシング部で鍛えた手がでる、足もでるという時々武闘派になるワイルド系の人だ。
その兄が20代のとき、風邪をひいてアパートの部屋で寝込んでいるとき、布教に来た教団の女性が部屋に上がり看病してくれた。当時は失恋したり何もかもうまくいかず落ち込んでいたが、女性に「あなたには坂本龍馬の相が出ている」と言われてその気になり、40万円もする印鑑3本セットを買ったという(部屋には坂本龍馬の本があった。印鑑は今も使っている)。
その女性に勧められて合宿に行くことになったのだが、講義で教えられる内容に兄は違和感を抱く。講師の話は、なんだかここで学んでいる者以外は人も動物も物質もみんなサタンの側にいるという感じに聞こえる。だけど、朝に洗面所で見かけた蠅だって、地上で何かの大事な役割をつとめているはずだろう、それでもサタンだというのか?
合宿では参加者を班分けして、それぞれに指導役のスタッフがつく。その指導役の男性に向かって、怒れば口もなめらかな兄は、あたかもボクシングのコンビネーション、ジャブ・ジャブ・ワンツーストレート・フックの連打を繰りだすように、ありとあらゆる疑念をぶつけた。自己紹介のときに実家は仏教のお寺だと言っていた男性に、お前は聖書を教えるここで何をやっているのかとも問いつめたらしい。男性は完全に反論を封じられ、兄のいた班の全員がその後退会を申し出たという。兄らしい暴れぶりだと思う。
どうりで、兄が借りたアパートにそのままぼくが入ったとき、部屋になぜか聖書があり、ページの余白に何か書き込みがしてあったわけだ。兄弟ふたりで教団にはまりかけていたのかと大笑いした記憶があるが、母が言うにはぼくは話を聞きながら泣いていたらしい。だとすれば、笑いながら泣いていたのだと思う。
母と兄の話にぼくは心を動かされたのだが、それでもまだ、これもサタンの誘惑なのではないかという懸念を払拭できたわけではなかった。だが、この家族をサタンだと決めつけることは、ぼくには到底できなかった。サタンならサタンでもいいと思った。そして、(ここがカッコいいのでよく聞いてほしいのだが)文学はサタンの側に身を置いて書くものだろうと思ったのだ。
東京に戻ったぼくは、研修には行かないこと、教団には入らないことを告げた。指導役のスタッフの男性は「あなた、地獄に落ちますよ」と言った。ぼくはそこでようやくはっきりと教団の素顔を見た思いで、笑って、「幼な子の聖戦」にも書いた文句を言い返した。
「落としてください。そしたら、ああ、神はいたんだと思って反省しますから。そして、そのときは、地獄に落ちたぼくを、あなたが救ってくださいよ」
このようにしてぼくは、本格的な信者となる一歩手前で教団から離れることができた。だけど、もしあのまま研修に行っていたら、相手を罪から救うための方便と思い込んで噓をついて勧誘し、高額な商品を買わせる信者になっていたかもしれない。たまたまぼくは信頼できる家族がいたから、そして文学があったからかろうじて踏みとどまれたのだが(文学だって場合によってはカルトになりうるけど)、家族仲が悪ければ制止の声に反発して(サタンの声とみなして)そのまま突き進んでいっただろう。そしてそういう人々は多いはずだ。
旧統一神霊協会が名前を隠して勧誘することは、卑劣で卑怯極まりないのは言うまでもない。相手の同意もなく、教義を滞りなくインストールするために本人が知らぬ間に洗脳するのだから。教団の利益のために了解もなく他人の心を操作するのは犯罪だろう。
ただ、旧統一神霊協会と知る前のビデオセンターの空間に居心地のよさをたしかに感じたように、カルト教団が付け入る空洞は、この世界があることの意味(理由)の根源的な不在や、その不在部分を埋める機能をもつ信仰について考えることをせず、各宗教のセレモニーばかり消費してきた日本のぼくら全員の足元に広がっているのだと思う。
必ず解答がある試験問題をクリアする方向に特化した教育。この世界があることの問いには解答がないことを教師も親も教えない。わかっているふりばかりして、子どもと一緒になってわからなさを分かち合うこともしない。
そんな世の中にうまく適応できているうちは何も疑問は湧かないだろう。体に宿る生命力は、根拠がなくても生きることの肯定に向かう。取り組むべき目標に向かっていたり、周囲からも評価されて心身が充実しているときには、この世に意味があるのかないのかなんて考えは忘れている。忘れているから生きられるともいえる。
しかし世の中の流れや人間関係に適応できずに孤独に陥ったり、意味を感じられない仕事をこなす毎日に消耗したり、自分の力ではどうにもならない理不尽な出来事に見舞われたとき、ずっと目を向けてこなかった虚無の深淵が足元にパックリ口を開く。
解答はない。というより、「こうだ」と明確にわかる形で答えが与えられることは決してない。そのことにどう折り合いをつけるか、どう解釈をするかは自分に委ねられている。そして、誰かに与えられた規範や教義や神話ではなく、自分自身の「主観」で究極の謎に折り合いをつける解釈をしていいのだし、それしかないのである。
ただ、ぼくとしては、この世に生きる意味を「愛のため」とかなんとかに無理やりこじつけるのではなく、「結局のところわからない」という認識を保持することが誠実な態度ではないかと思っている。「わからない」という空白を残すということは、この世界がただ無意味に突発的に湧いて出てきただけという恐ろしい可能性を視野に入れながらも、決めつけはせず、「でも何かあるのかも」という1パーセントの余地を残す態度である。100パーセント無意味で即物的であると決めつけるのは傲慢ではないだろうか(なぜならそれだって根拠を示すことはできないから)。
その意味ではぼくは基本的に無神論者ではあるが、1パーセントの信仰者でもある。ふだんこんなことは誰にも言わないし書かないが、この際だから打ち明けてしまおう。ぼくは、自分がほんとうには何も知らないという謙虚さと、この世界があり、自分が今ここにいることへの敬虔の念だけは手放したくないのである。これは旧統一神霊協会に入りかけた経験からそうなったというより、それ以前の振りだしに戻っただけなのだが、今思えばその1パーセントの余地の部分にカルト思想が忍び込んだのだろう。
しかし、こう考えてくると、人間存在というものの根本は、じつはかなりフィクション的な不確かなものの上に立脚しているように思えてくる。だが、あまりこの考えにとらわれてしまうと危険だ。
青臭い話に辟易(へきえき)しただろうか。だが、どんなに鼻で笑おうが、その青臭い問題は解決されるわけではない。そしてそれがあるかぎり、信仰にまつわる被害もなくならないだろう。なんといっても、この日本という国自体が、神の子孫を頂点にいただくという前近代的・非科学的な信仰をいまだに維持しているのだから。
著者情報
小説家
木村友祐
きむら ゆうすけ
1970年、青森県八戸市生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。2009年『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。著書に『海猫ツリーハウス』(2010年、集英社)『聖地Cs』(2014年、新潮社)『イサの氾濫』(2016年、未来社)『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(2016年、新潮社)『幸福な水夫』(2017年、未来社)『幼な子の聖戦』(2020年、集英社/第162回芥川賞候補)温又柔氏との往復書簡『私とあなたのあいだ―いま、この国で生きるということ』(2020年、明石書店)がある。