新海誠が『すずめの戸締まり』で描きたかったものは何か?
杉田俊介(批評家)
そもそも新海監督には、漠然とした「天皇(制)的なもの」、民間信仰やオカルト、サブカルチャーなどを含めた大衆レベルでの「神道的なもの」には関心があるものの、古代、中世、近代、戦後、平成期……などの天皇・皇室をめぐる歴史的変遷や事実関係にはそれほど興味や理解があるようには見えない。『すずめの戸締まり』における神道/天皇の主題は、いかようにも受容し解釈しうる非常にぼんやりとしたものであり、歴史的事実の正確さよりも、現在の「日本」の庶民感情やネット空間を漂う天皇的なもののイメージ、サブカル的あるいは伝奇的な天皇のイメージを、その曖昧さのままに融通無碍(むげ)に活用しようとした、という感じではないか。私にはそのように感じられる。
その中でもとくに重要に思われるのは、巫女/女帝としての鈴芽は、「母性(母権)なき女性」としてその力を発動していく、という点ではないか。
加納実紀代『天皇制とジェンダー』(2002年、インパクト出版会)によれば、明治以来の天皇を「父」とする家族国家観、あるいは戦後の家父長的な天皇制国家観の「裏面」として、民衆の心に底流する「〈母なるもの〉への共同幻想」があり続けてきたのではないか、という。「そのことをよく知っていたからこそ、明治国家の創立者たちは、その統一シンボルたる天皇を民衆に提示するにあたって、神武天皇ではなく、天照大神を持ち出したのである」。こうした〈母なるもの〉としての天皇の力を、『すずめの戸締まり』は明らかに意図的に切断し、断念しようとしている。
比較のために持ち出せば、細田守の近作アニメーション映画『竜とそばかすの姫』(2021年)では、主人公の「すず」は、死んだ母親の倫理性――赤の他人のことをも自己犠牲的に助けねばならない――を呪いのように背負いながらも、友人、隣人、ネット上の匿名の他者たちの支援や後押しを受けて、母性的な自己犠牲精神を言わば「社会化」(他人とシェア)しようとしていた。すずは、母の呪縛から自立することに、半ばまでは成功したと言える。
しかし『竜とそばかすの姫』では、最終的には、すずもまた他者を助けるためにグレートマザー的な肥大化した「母」の力を発揮する、という流れになってしまう(それはすずのアバターである歌姫のベルが、身バレ=カミングアウトも辞さずに、「歌」の力によってネットの匿名の人々を共感の連鎖に巻き込んで、「竜」の正体である謎の人物を救い出す、というシーンによって示されている)。
これに対し『すずめの戸締まり』では、「母」が二度にわたって象徴的に殺害される。一度は代理母の叔母・環との感情的離反によって。もう一度は、母の震災による死をはっきりと受け止め、母に別れを告げることによって。
つまり、鈴芽の中では女性的な力と「母」的な力の意味が根源的に分離されるのだ。物語内容としては類似し共鳴する部分を持つだけに、『竜とそばかすの姫』と『すずめの戸締まり』のこうした差異、すず/すずめの「母」への態度の違いが際立つ。『すずめの戸締まり』は象徴的な母殺しの物語でもあり、母親なんていなくても娘は生きていける、四歳まで愛されたらもう十分だ、というある種の残酷なほどの「女性の強さ」を発揮してみせた物語なのである、とも言える。この点はやはり強調しておきたい。
『新海誠本』と『小説 すずめの戸締まり』(角川文庫)
新海監督がこだわる東日本大震災のテーマ
そして新海監督の東日本大震災の被災地への思いの強さと誠実さは、疑いようがない。ただし、作中では震災が無感覚、否認、絶望、再建という心理学的なステップとして捉えられてしまう、という点の危うさは、やはり指摘しておくべきだろう。(註2)
社会的な次元と心理の次元は異なるはずである。にもかかわらず『すずめの戸締まり』では、戦後社会の様々な社会問題を露呈させた震災という経験が心理学化(=非社会化)されてしまい、心理学で近年よく用いられるレジリエンス(回復力、復元力)的な作用によって、ナショナリズム的な「われわれ」――危機や災害によって何度傷ついても立ち上がる美しい「われわれ」――が立ち上げられていくかのようだ。ここにはどうしても違和感がある。
実際に、『すずめの戸締まり』を観ていると、新海監督が暮らす「日本」には、震災の心理(学)的な痛みとトラウマはあるし、地方の荒廃の悲しみはあるけれども、まるで、性差別的な現実も、排外主義も、原発の問題も存在しないかのようである。
そしてそのことは、ある種の危うさとも通じあっている。日本的システムに対する「犠牲性」によって、天皇という存在と被災者や一般庶民たちが、かなり曖昧なままに、一体化させられてしまっている、ということである。天皇という祭祀王もまた日本を護るための自己犠牲を強いられた犠牲者なのであり、震災や地方荒廃の犠牲者としての庶民たちと等しい……ということになる。
庶民と天皇が対等な存在として、同じ方向を向いて、日本の国土の幸福のために祈っている。スピリチュアルな祈りの儀礼によって災厄を鎮めようとする。『すずめの戸締まり』では民間神道と国家神道的なものがそのような形で不即不離で融合している(民俗学者の柳田国男が天皇もまた常民である、と捉えていたことを思い出す)。
劇場用パンフレットによれば、草太は「神と人間の融合体みたいなイメージ」とされ、まさに「現人神(あらひとがみ)」の庶民的な分身体なのである。ただし、「閉じ師」たちの仕事は、形式的には祭祀王としての天皇と同型的であるものの、金銭的対価はないようで、生活費は別の仕事で稼がねばならないとされるなど、ほとんど「エッセンシャルワーカーとしての天皇」と呼ぶべき存在である。
あるいは先ほど述べたような東日本大震災の「心理学化」の結果、津波・地震という自然災害と人為的な原発・原子力の問題が切り離されてしまう、という問題もあるだろう。ほんの一瞬、福島第一原発が映ったり、汚染度を詰めたフレコンバックや立入禁止地区の看板が出てきたりして、目配りはしてあるが、それが正面から描かれることはついにない(たとえばミミズの表現に影響を与えただろう『もののけ姫』のダイダラボッチは、明らかに原子力的なもののメタファーとして読み取れるが、ミミズの表象にそうした含意を感じることは難しいだろう)。
東日本大震災という経験は、この国の東京と地方の格差、電力や原子力をめぐる内的矛盾などを露呈させたはずなのに、『すずめの戸締まり』では、あたかも震災の傷は「日本国民=日本人全体の傷」であるかのように表象されてしまうのだ。少なくともそのようにズルズルべったりなものに感じられてしまう。つまり「震災というトラウマを受容する傷付いた主体=純粋国民」として……。
その点ではたとえば、映画公開に先立って刊行された『小説 すずめの戸締まり』(2022年、角川文庫)の描写に比べて、映画版の『すずめの戸締まり』では皇居という場所の意味の重要性がやや曖昧なものにされること、さらには、アジアや中東の労働者が「存在しない」のにローソンのバイト店員が白人女性であること、等々も気になるところだ。『すずめの戸締まり』の「日本」は、本当に、日本列島の人々の現在の生活や暮らしを的確に反映しているのだろうか、この作品は震災というトラウマに向き合うことによってまさに見たいものだけを見ているのではないか、と。
過去作『君の名は。』『天気の子』にはなかったもの
著者情報
批評家
杉田俊介
すぎた しゅんすけ
1975年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。元障害者ヘルパー。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『橋川文三とその浪漫』(河出書房新社)、『男がつらい!』(ワニブックス「PLUS」新書)などがある。