imidas - 情報・知識&オピニオン

探究

カルチャー

新海誠が『すずめの戸締まり』で描きたかったものは何か?

杉田俊介(批評家)

 ベタすぎること(だが絶対必要なこと)を徹底的にベタに述べておく。
 民俗宗教や民間神道や国家神道を重大なモチーフとしているにもかかわらず、『すずめの戸締まり』が災害と荒廃に対する日本(人)の被害のみを中心的に扱っており、アジアの他者のことも、植民地主義/帝国主義的な問題も一切出てこないということには、やはり疑念が残らざるをえない(たとえば関東大震災のことにまで言及するのに当時起こった朝鮮人虐殺には全く触れられない)。
 日本列島で暮らす人々の総体を「日本国民」だけで捉えることはできない。現在の「日本(人)」の多くが東日本大震災の経験を忘れているという忘却の問題の背後には、社会的あるいは歴史的に「そもそも記憶すらされていない」人々の諸問題が無数にあるはずなのだ。
 その点では、『すずめの戸締まり』の想像力の形はじつは、『永遠の0』(2006年、太田出版)などによって「国民作家」とも呼ばれるベストセラー作家、百田尚樹の『日本国紀』(2018年、幻冬舎)とあまり変わらないのではないか。
『日本国紀』には少なくとも対外的な外国の感覚があり、それゆえに排外的な感覚もまたあって、そこから、日本(人)の古来伝統の(?)「和」の精神をもって災害ナショナリズムを形成しよう、という意識が出てくる。しかし『すずめの戸締まり』には、そもそも、対外的/排外的な感覚「すら」も感じられない(他方の『日本国紀』には、天皇の存在に対する関心はほぼ見られないのだが)。

 震災によって母親を亡くし途方に暮れる四歳の時の自分に向けて、高校生に成長した鈴芽が最後に語りかける言葉は確かに印象的である。今はどんなに悲しくても、あなたはこの先ちゃんと大きくなる。未来なんて怖くない。あなた(たち)は光の中で大人になっていく。必ずそうなる、それはちゃんと決まっている――高校生になった鈴芽は常世の中で出会ったかつての幼い頃の自分にそのように伝える。
 『すずめの戸締まり』は、こうして、かつての新海作品たちのように「すでに失われてしまったもの」へと感情を固着させて陰鬱なメランコリーの中に沈んで、その中でぎりぎりのロマン的な崇高な風景を輝かせる、というのではなく、「すでにあったもの、十分に満たされていたもの」を思い出し、過去に喪われた人々やその記憶に「正しく」別れを告げて、現在と未来を肯定するための物語である、と言える。大事なものはもう全部、ずっと前にもらっていたんだ、と。それが鈴芽の象徴的な母殺しの物語、「母性なしの女性」としての自立の物語としても読み解けることは、すでに述べた。

 さて、最後に確認しよう。
 『君の名は。』では、巨大災害による地方都市の被害そのものが「なかったこと」にされた。それは歴史修正主義的な欲望と紙一重のものだった(拙稿「『君の名は。』論――セカイとワカイの間に」、「すばる」2016年12月号)。
 これに対し『天気の子』では、気候危機による東京の緩やかな水没と衰退を歴史修正することなく、そのまま受け止め、滅びていく世界の中を敢然と生きる若者たちの生を「大丈夫」と祝福した。しかしそれは、見ようによっては、大人たちの社会的な責任を放棄し、環境破壊や慢性的貧困の中を生き延びるという責任と負担を子どもたちに押し付けている、という欺瞞をはらんでいるようにも見えた「映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体」、「現代ビジネス」、2019年8月9日 

 これらと比較するならば、『すずめの戸締まり』では、新海監督は、大震災のトラウマや地方の荒廃に苦しむ「日本」全体に向き合い、そのうえで肯定的な未来の「光」を提示するために、文化の力を使って大人としての「責任」を全力で果たそうとしている。そのように見える。そして「日本」全体に、たとえ大災害という現実の傷跡は消し去れず、愛する人は二度と甦ってこないとしても、それでも「日本人」は「大丈夫」である、という太陽のように眩しい「光」のメッセージ(お言葉)を伝えようとしている。そのように見える。
 大震災による取り返しのつかない傷跡と現代社会の荒廃・貧困化を正面から受け止めて、「日本」の現在と未来を肯定するために、天皇(制)とジェンダーという困難な問題に深く身を沈めようとしたこと。民俗宗教と国家神道、巫女と女帝、アマテラスとアメノウズメ、などなどのきわめて危うい緊張関係をエンタメの中に政治神学的な情動として埋め込んでみせたこと。新海監督のこうした志には、やはり、率直に凄みを感じた。
 危険を恐れず、今、これをやったのだ、ここに踏み込んだのだ、という驚きである。とはいえもちろん、その描かれ方や扱い方については、観客による多事争論があってしかるべきだろう。

映画の舞台となった御茶ノ水駅にあるフォトスポット

新海作品には「日本列島」への愛が足りない?

 これらを指摘した上で、最後にはっきりと疑問を述べておきたい。『すずめの戸締まり』が示したこの方向で本当に「大丈夫」なのか、と。すでに述べたように、『すずめの戸締まり』を観るかぎり、新海監督が暮らす「日本」には、震災の心理(学)的な痛みとトラウマがあり、地方の貧困や荒廃の悲しみはあっても、まるで性差別的な現実も、排外主義も、原発の問題も存在しないかのようなのだ。これで一体なぜ「未来なんか怖くない」「いつか必ず朝が来る」「それはちゃんと、決まっていることなの」と言えるのか。

 これはかつて私が『宮崎駿論』(2014年、NHKブックス)や『橋川文三とその浪曼』(2022年、河出書房新社)などの著作が書いたことに関わるが、私もまた民衆的民俗や宗教混合の先にあるような、日本列島の(丸山眞男の議論に従えば、たんなる「雑居」ではない)雑種化=混血化の過程に何らかの希望を託しているからこそ、多文化主義やポストコロニアリズムの歴史的蓄積をきれいに消し飛ばしているように見える『すずめの戸締まり』には、どうしてもノレない部分があった(その点では、宮崎駿の世界観と新海監督の世界観は、似ているようでほとんど似ていないのではないか)。
 これは政治的正しさ(PC)にもっと配慮すべきだ、という話とは違う。社会問題をあれもこれも詰め込むべきだ、というのではない。愛国であれ天皇の使い方であれ、もっとちゃんと向き合ってくれ、本気で愛するならば雑種的で混血的な日本列島と列島民の姿が見えてくるはずだろう、自然災害と社会問題が渾然一体となったアニメーションになっていくはずだろう――そのように言いたかった。誰のことをも人柱=人身御供にしたくないのであれば、もはや祭祀王を必要とせず、「エッセンシャルワーカーとしての天皇」が人知れず苦しまずにすむ社会を真っすぐに展望すべきではないのか、と。

 評論家の藤田直哉は、映画公開前に刊行された『新海誠論』(2022年、作品社)で、新海誠のアニメーションが導入する神道/スピリチュアリズムは、天皇制や国家神道とは別物であると論じている。それらはあくまでも縄文文化や蝦夷的なものにも根差すような、迫害された人々の側の神道でありスピリチュアリティなのではないか、と。しかし私には、『すずめの戸締まり』においてそうした上/下、国家/民衆のはっきりとした切り分けができるとは思えない。それらは曖昧に、ズルズルべったりになってしまっている。
   私は新海監督が現代アニメーションの中に神道や天皇の力と女性たちのシスターフッドの力を導入しようとしたこと、そのこと自体の意味は決して否定しない。しかし、現時点での新海作品には、(「日本」ではなく)日本列島への愛が足りない。(「日本人」ではなく)日本列島民への愛が根本的に足りていない。
 愛するならもっと愛してくれ。日本列島の混血性と雑種性をも深く受け止めてくれ。「国土」から居ないものにされている辺境や周縁の民たち、移民や流浪の民たちもまた、この日本列島に暮らし続けてきた。あるいは今もまだ流入してくる非「日本人」や非「国民」とされる民たちのことをも想ってくれ。その時新海監督は、「国民作家」という評価にさえも「戸締まり」をし、アジア作家、世界作家への扉を新しく開くのかもしれない。

著者情報

批評家

杉田俊介

すぎた しゅんすけ

1975年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。元障害者ヘルパー。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『橋川文三とその浪漫』(河出書房新社)、『男がつらい!』(ワニブックス「PLUS」新書)などがある。

関連記事