映画『君たちはどう生きるか』に宮﨑駿が込めたものとは?
杉田俊介(批評家)
作中の眞人には、実母/義母に対する何らかの性的欲望があるようには感じられない。息子/母/父の間に欲望の三角形が形成されていない。帰宅した父親と義母のキスを階段上から覗き見るシーンにおいてすら。宮﨑駿にとっては、おそらく、「母からこの世界に産んでもらう」という出来事=事件それ自体が究極の享楽であり、そこには恋愛や性愛の要素は特に必要がないのではないか。すなわち優先されるべきなのは、母によってこの世界にいつも何度でも産んでもらいたい、というクィアで特異的な欲望なのである。
「母親に懐胎してもらって産んでもらう」という出来事=事件こそが絶対的かつ反復可能なはじまり――それはサイードの区別でいう神話的なoriginであるようにも世俗的なbeginningであるようにも見える――であり、それはべつに単性生殖でも処女懐胎でも何でも構わない。必ずしもそこにセックスは必要ない(宮﨑作品の中では性愛の具体的過程が描かれることはない、『風立ちぬ』ですら)。そうやって母親は何度も死に、何度も甦り、何度もこの私を産む。いつも何度でも。(文字数の都合で詳細は書けないが、キリコや老婆たちの人形のくだりで、あの世界は何度も循環しループしているのだろう、という確信を私はもった)
ただし『君たちはどう生きるか』において描かれる意味での出産主義は、子どもの再生産によって既存の社会と未来を維持することには特別な価値がある、というものでもない(註1)。そこにはむしろ、この世界はどうなってもいい、べつに滅びてもいい、それでも母親から産まれたい、という破壊的なラディカルさを感じる。何というか、世界の終わりとはじまりがねじれて重なってしまうような異形の欲望である。
出産や誕生の価値を否定し、人間はそもそも産まれてこなかったほうがよかったという(論理的には成立し得ない)否定的欲望を打ち出す立場を反出生主義(antinatalism)と呼ぶが、それに対して、母胎に孕まれ産まれる以前の(存在/不在が分岐する手前の)未生の「非在」としての主体性を全面的に肯定し祝福するような――その主体が将来どんな子どもに育とうが、いい子になろうが悪人になろうが、あるいは仮に産まれてくることができずに水子になってしまった場合ですら――母なる欲望があるのかもしれない。そこに想定されうるのは、すなわち、未生の非在者のための出産肯定主義――antinatalismではなくいわばnon-natalism(非の出産主義)とでも呼ばれるものだろうか?――のような特異的な欲望なのである。
眞人は「下の世界」での母探し(神隠しにあった義母のナツコを探すこと/亡き実母のヒサコと再会すること)の冒険の果てに、塔の主である大伯父と対峙する。ここでも私は、単純に、最初に映画を観た時の自分の印象に従おう――私の印象は標準的な解釈の一つにすぎないとは思われるが。すなわち、主人公の眞人は少年の頃の宮﨑駿であり、終盤に眞人が対面する大伯父は年老いて力尽きる寸前の宮﨑駿である。つまり宮﨑駿が宮﨑駿自身に会いに行く。ここでもまた、『君たちはどう生きるか』は円環的な物語である。

眞人の義母・ナツコ(スタジオジブリHPより)
大伯父は、この地下の世界を創造しバランスを保つための仕事を、眞人に継承してもらいたいと考えている。大伯父の仕事とは、虚構の世界を構築して維持するというアニメーション制作の仕事の暗喩であり、塔はスタジオジブリである、というのも標準的な解釈にすぎないだろう。しかし眞人は大伯父の願いを断る。自分は現実に還って、友人たちと共に生きます、とはっきり宣言する。自分は虚構作りの仕事――石製の積み木を積み上げて虚構の世界のバランスを保ち維持すること――なんて継承しません、と。そして世界は崩壊する。塔は崩れ落ちる。これも素朴に言えば、独自の達成を築き上げてきた戦後日本アニメの終焉(世界の終わり)を暗喩するものだろう。
しかし、作品を観終えて映画館を出てみても、あの大伯父とはやはり、戦後日本社会を生き延びて疲弊して年老いた眞人自身なのだ、という印象が消えない。つまり、大伯父からの仕事(積み木=虚構制作)の継承の依頼を断って、虚構の塔の中ではなく悪意に満ちた現実で友たちと共に生きる、という決断をしたからこそ、眞人は戦後社会の中で様々な矛盾を経験し、やがては大伯父の宿命を反復してしまうのだろう、と。そこにはやはり、自己出産的な輪廻と反復の業の深さが感じられる。
少年の頃の自分に戻って、虚構作り(アニメ作り)を継承せずに、別の仕事で生きていたとしたら。宮﨑駿の人生はどんなものになっただろうか。しかし、作中の眞人がたとえ自己意識の上ではそれを拒絶したとしても、宮﨑駿の人生にとって、母と息子の無限の産み直しの循環は決して終わらないのだろう。自己と母の関係を含めて、おそらく、宮﨑駿自身が宮﨑駿を自己出産し、無限に産み直すのだろう――なぜなら、母とはこの私である、のだから。
繰り返すが、宮﨑駿にとって、「この私はこう生きたし、これからもこう生きる」の「生きる」とは、母から「いつも何度でも」産んでもらう=産み直してもらうことである(註2)。そしてアニメーションとは、死んだ母親を虚構的に甦らせるための魔法的な技術である。この私が魔法的な技術で甦らせた母親によって産み直されたのがじつはこの私だった、という時間軸の不可思議なねじれ。黄泉がえりと産み直しの無限反復……。私が『君たちはどう生きるか』を最初に観た時の印象は、このようなものだった。では、それをこの私は、どのように受け止めればいいのか。
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『君たちはどう生きるか』を最初に観た時にとりわけ気になったことがある。評伝的事実によれば、宮﨑は四歳の頃、宇都宮で空襲を経験し、家族でダットサンに乗って逃げる時に、「乗せてください」と助けを求める女の人に遭遇したが、その人を見捨ててしまったことがあったという。その女性は女の子を抱いていた(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』参照)。
これはよく知られたエピソードである。
宮﨑はその記憶は自分の中でも曖昧であると語っているし、長兄はそれを駿の記憶違いではないかと証言してもいる。しかしいずれにせよ、宮﨑駿にとって戦火の中のその出来事は決定的なトラウマとなり、その後の創崎作活動の原点となったのだった。戦争のような極限状況の中で見知らぬ誰かを助けられるか。それは強い社会的な倫理性を含んだ問いであるだろう(拙著『宮崎駿論』参照)。
しかし『君たちはどう生きるか』は、そうした社会性を含んだ原点の問いを、自分は母親を助けられなかった、というドメスティックなエピソードへと大胆に書き換えている。自分の創作の原点を強引に大きくねじ曲げてでも(宮﨑自身の年齢と眞人の年齢をズラしてでも)、戦争の日々によって自分は母を失ったのだ、というふうに改変したのである。そして母親を戦火の中に見殺しにしてしまった、という悔恨の痛みを妄想領域に達するほどに研ぎ澄ませた。それを新たな原点としてつかみ直した。そこでは助けられなかったという罪の悔恨が、死んだ母を無限に求め続けるという享楽(倫理的欲動)とも深く結びついていく。
ナツコと老婆たち(スタジオジブリHPより)
著者情報
批評家
杉田俊介
すぎた しゅんすけ
1975年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。元障害者ヘルパー。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『橋川文三とその浪漫』(河出書房新社)、『男がつらい!』(ワニブックス「PLUS」新書)などがある。