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映画『君たちはどう生きるか』に宮﨑駿が込めたものとは?

杉田俊介(批評家)

 宮﨑駿はこうした一連の変形の操作によって、『君たちはどう生きるか』という作品から政治性や社会性を一層切り捨ててしまったように見える(『風立ちぬ』どころか『ハウルの動く城』に比べてさえも)。しかし、宮﨑駿はそうした極私的な欲動を貫くことで、かえって、特異的な意味での世界的な政治性に手を触れているようにも感じられる。
 ある意味では『君たちはどう生きるか』は、高畑勲の『火垂るの墓』に対する一つの応答でもあるのではないか。有名な話であるが、高畑監督は『火垂るの墓』について「じつは私は反戦のメッセージを伝えようということでこの映画を作ったわけではないのです」と言っていた(「映画を作りながら考えたこと」、『映画を作りながら考えたこと』所収)。清太は堪え性がなく妹を死なせてしまい愚かだった、いやあれが戦災孤児のリアルだ、というようなリアリズムの話とは少し違う。
『火垂るの墓』で兄妹を襲う運命は確かに過酷だが、防空壕での二人きりの暮らしは、美しく楽しい遊びのようなものだったのであり、かけがえのない幸福があった。原作者である野坂昭如との対談(「清太と節子の見た〝八月十五日〟の空と海はこの上なくきれいだった」、同書所収)では、野坂の「あれは心中物だから……」という言葉に、「そうですね。それは最初に読んだときに非常に強く意識しました。近松の心中物とか、そういうものを感じまして」と応じている(ちなみに高畑自身が九歳の時に岡山で空襲にあい、姉と二人で逃げ、蒸し焼きの死体を目撃して生涯にわたる衝撃を受けてもいる)。
 それだけではない。高畑自身のそうした自作解説を超えて、『火垂るの墓』という作品は、だからこそイデオロギー的な意味での「反戦」以上の切迫した〈反戦〉的な政治的欲望によって我々の胸をえぐるのではないか。そのように考えられる。それは芸術的な美か社会的リアリズムか、欲望か政治か、などの粗雑な二元論をつねに超えてしまう。同様のことは少年と妹ではなく母と息子を主人公にした『君たちはどう生きるか』についても当てはまるように思われる。

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 興味深いことに、宮﨑駿から大きく影響を受けてきたアニメーション監督たちの近年の作品にも、母的なものの主題が大きく浮上してきていた。それは戦後日本の「成熟と喪失」(江藤淳)の問題系に関わるが、もはやそれだけでもないようにも感じられる。
 たとえば『君たちはどう生きるか』の実母/義母の分身的な関係は、新海誠監督の『すずめの戸締まり』(2022年)の東日本大震災で亡くなった実母/代理母である叔母(環)の関係と重なるように思える(註3)。どちらの作品でも叔母たちは、それぞれに一瞬、歪んだ表情を見せて姉の息子/娘を激しく拒絶する。ただし、両者の姿勢は対極的でもある。眞人が母親から何度でも産んでもらうことを欲望するのに対し、すずめは死んだ母親の呪縛を解き、象徴的な母殺しを完遂し、自分で自分を救済しうるような自立的な女性になるのだ。
 あるいは細田守監督の『竜とそばかすの姫』(2021年)では、主人公のすずは、かつて他者を助けるための自己犠牲によって亡くなった母親の倫理性に強く呪縛されている。娘であるすず自身もなかばまでは母性的な存在になって、他者を助けるために自己犠牲的な力を発揮していく。しかしすずはそれと同時に、周りの仲間や共同体の助けを借りることによって、母性的なものの力をいわば「ソーシャル化」(=非母性的な母化)し、自己犠牲性の危うさを分散して、自らも生き延びていくのである。
 さらにまた、庵野秀明監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)では、シングルマザーである葛城ミサトが「社会変革的な母」のような存在になる。ミサトは母性主義的な母親でもなく、ネオリベラリズム的(ポストフェミニズム的)な職業軍人的女性にもとどまらない。仕事仲間を信頼し、人類の知恵と意志を信じ、子どもたちのことを未来を担う「個」として愛そうとする。そして未来世代が存続しうるための、持続可能な環境を作り出そうとするのである(拙著『ジャパニメーションの成熟と喪失 宮崎駿とその子どもたち』参照)。

 眞人とアオサギ(スタジオジブリHPより)

 こうした母的なものの描き方と対処の仕方の違いはそれぞれに興味深い。これらの同時多発的な母問題を、男性創作者たちは年をとると結局、PC(ポリティカル・コレクトネス)的な多様性に耐えられずマザコンに行き着くのだ、というような雑な話に落とし込んでしまうべきではない。あるいは、作家の欲望論的な問題を、ネット用語でいう「性癖」や「原液」などの次元に解消したり、わかりやすい心理学・神話学的な解釈枠によって一般化してしまうべきでもない。
 私たちはあらためて、母問題にかんする批評言語を磨き上げていかねばならないだろう。実際に近年は、主に母娘関係をめぐって、母性的なもの/母的なものの区別、有害な母性性(いわゆる「毒親」など)、母と娘のシスターフッドの再構築など、様々な批評的視点の蓄積がある。
 ある種の精神分析理論には、欲望(享楽)を諦めないことが倫理である、という有名な言葉がある。特異的な欲望を抑圧して現実に軟着陸=昇華させるのではなく、それをどこまでも持続的に徹底化していくこと、そこに欲望論的な倫理があるのではないか、と。
 もちろんそれは、現代のPCへの配慮をやめて、タテマエ的な正しさ(=漢意〈からごころ〉?)を全否定し、偽りのない本音(=真心?)を語るべきだ、というようなことではない(「性癖」や「原液」というネット用語には国学的ないわば「真心の共同性」に連なるような危うさがある)。欲望を諦めずに倫理に至ることがどれだけ恐ろしいことなのか。それがどんなに勇気を要することであるか。そのことを批評的に考え続けていくべきだろう。
 己の欲望の特異性を決して諦めないということは、ある側面では反社会的なことであるだろう。あるいは、世界それ自体を滅ぼしてもいい、というような(反社会性を超えた)反世界的な破壊性すらも胚胎しうる。しかし、そうした反社会的/反世界的な欲望の先で、この自分だけに表現可能な倫理的享楽を創造し、それこそを一つの作品として産み直していくということ。そうした試みは、それ自体が極めて政治的な(イデオロギー的な、ではなく)実験でありうるのではないだろうか。私はそう感じる。そして、『君たちはどう生きるか』が愚行的に見せてくれた欲望論的な政治性を受け止められるだけの批評言語が今、自分たちの手許にはあるだろうか。そう問い直さねばならない。以上が、この私にとっての『君たちはどう生きるか』論の初発の一歩である。

著者情報

批評家

杉田俊介

すぎた しゅんすけ

1975年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。元障害者ヘルパー。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『橋川文三とその浪漫』(河出書房新社)、『男がつらい!』(ワニブックス「PLUS」新書)などがある。

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