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「心の病」を表す言葉がない世界 ~「ありがとう」「教わる」という言葉もなく、川や山に人格があり、氷河は音を聴けるという世界線

雨宮処凛(作家、活動家)

 今の日本に住む人で、「心身ともに絶好調!」という人はどれくらい存在するだろうか?

 3歳児とかだったらいるかもしれない。大人でも「昨日、恋愛が成就」とか「宝くじで5億円当たった」とかの人はそれにあたるかもしれない。

 しかし、この国で生きている人の大半は、身体は健康だとしても鬱々とした気持ちをどこかに抱えているのではないだろうか。それほどに、この国では「心の病」が近くにある。

 しかし、もし「心の病」という概念がそもそもなかったら? 「鬱」という、見るからに気が滅入りそうな漢字やそれを表す言葉が最初からない世界で生きていたらどうなのだろう?

 そういえば、ある国には「肩こり」という言葉がなく、しかし、日本でその言葉を知った外国人は、それまでまったくなかった肩こりに悩まされるようになったという話を聞いたことがある。

 そんなことを書いたのは、奥野克巳著『ひっくり返す人類学 生きづらさの「そもそも」を問う』(ちくまプリマー新書、2024年)を読んだから。

 きっかけは、月刊PR誌『ちくま 9月号』(筑摩書房、2024年)に掲載された吉田尚記(ひさのり)氏による書評「人類学者による痛快などんでん返し」。この書評のテンションが常軌を逸していた。何しろ出だしの1行が〈痛快! 痛快! 痛快!〉だ。

 間髪入れず、〈学問についての本でありながら、どんな大どんでん返しのミステリー小説よりも痛快である〉と畳み掛ける。そしてこの本は、〈我々の常識と現実〉をひっくり返すのだという。ひっくり返されるのは「教育」「格差」「死」「自然」など。〈人類学者・奥野克巳先生による大逆転ホームラン〉であり、評者はその奥野氏とともに本書で取り上げられる「プナン」なる存在に会ってきて以来、1年半もの間、一度も落ち込んでいないというではないか。

 いったいなんなんだ、プナンって?

 そう思ったが最後、すぐに本を買い求めた。

 プナンとは、ボルネオ島に暮らす狩猟採集民族。奥野氏が19年間にわたってフィールドワークの対象とし続けている森の民だという。

 彼らの生活はシンプルだ。家族とともに狩りをし、出稼ぎなどに行くことなく森の中で生きる。

 読んでいてまず驚かされたのは、「教育」について。日本で私たちは義務教育を受け、そこで徹底した管理を受けて企業などにとっての即戦力たることを求められるわけだが、プナンの世界ではまったく違う。

 まずプナンには、「教えてあげる」「教わる」という概念そのものがない。

 そもそも、「教えてあげる」「教わる」だと、「伝授される知識や技能は、個人が所有していることが前提になっている」。 が、プナンの世界ではそれは誰のものでもなく、共同体の中でゆるやかに共有されているものなのだという。

 そんなプナンの世界に学校が入り込んできたのは1980年代なのだが、子どもたちの多くは低学年のうちに行かなくなるという。以降、40年経ってもそれは変わらず、そのかん 中学校に進んだプナンは一人もいないとのこと。

 理由は、プナンがそもそも学校に価値を見出していないから。それどころか、忘れ物をしたり宿題をやってこないと先生に怒られるしで、ろくなところではないというのが率直な考えらしい。また、森の中で暮らすプナンにとって、因数分解や二次関数ができたとしても、目の前の暮らしにはなんの役にも立たない。

 思春期、よく「こんなこと勉強して将来何の役に立つの?」と憤ったものだが、「役に立たない」とあっさりと見切りをつけていた人々がボルネオ島にいたのだ。

 では子どもたちは誰から学ぶかと言えば、親からだ。狩猟や採集の仕方、薪の割り方、火の熾し方、小屋の建て方など、森の中で生きるすべを学ぶ。よって、親が子どもの「不登校」を問題にすることなどありえない。

 ちなみに「教わる」概念がないことで共通するのはカナダ北西部に存在する狩猟採集民族、ヘヤー・インディアン。「教える・教えられる」という概念がないだけでなく「師弟関係」もない文化の背景には、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という前提があるという。では誰がそんなことができるのかといえば「守護霊」だけということで、こんなラスボスを出されたら「そうですか」と頷く他ないではないか。

 ついで驚かされるのは「格差」と「権力」について。

 日本が「格差社会」と言われるようになってもう20年ほど経つわけだが、プナンにはそもそも「貧富の格差」がないという。

 鍵となるのは「狩猟採集」と「豊かな森」にありそうだ。もともとプナンは動物を飼育したり作物を栽培したりせず、野生動物を捕まえて生きてきた。周囲にはイノシシなどの動物や鳥、川魚などが豊富なため、「食べ物を貯めておく」という発想がないのだという。

 捕らえた獲物は生活の場に持ち帰り、「そこにいる全ての人たちで消費するのが基本」。 自分が狩りに成功した時にみんなに分配することによって、自分も分配に与れる。究極の「シェアリング・エコノミー」だが、プナンでは誰かが独り占めすることが認められていない。なぜかといえば、全員が生き残るため。

 そんなプナンを知っていく中でもっとも驚愕したのは、貧富の格差が生じ、それが権力につながるような仕組みがあらかじめ排除されるシステムが完成していること。狩猟採集社会だと、「狩りがうまい人」が尊敬され、リーダーになりそうなものだが、必ずしもそうではないという。

 その前に説明しておきたいのは、「感謝」についてだ。

 本書には、エスキモーの世界で、とある研究者が狩猟者から肉を与えられた時のエピソードが出てくる。当然お礼を言うわけだが、相手からは「礼など述べなくていい」と言われたというから驚きだ。

 なぜなら、「贈り物に対してお礼を述べることは、贈り物をくれた人物の奴隷になること」だから。

「その肉をもらうことはあなたの当然の権利なのだとも言われた」というから、なんというか、「挨拶と感謝の言葉至上主義」に生きる島国の身からするとびっくりだ。

 が、上には上がいる。ブラジルのマイシ川に住む狩猟採集民族ピダハンには、そもそも「ありがとう」という言葉すらないという。では、何かもらったりしたらなんと言うのかといえば、「これでいい」「これで大丈夫」というのだから、近所に住んでたら絶対トラブルになりそうだが、なんというか、自由だ。

 そして強調しておきたいのは、プナンにも「ありがとう」という言葉自体がないということ。

 そんなプナンには、「ビッグマン」という一時的なリーダーがいるという。どんな人がなれるのかというと、気前のいい人。率先して周囲の人に分け与える人物がなれるというのだから面白い。「ケチはダメ」「寛大であるべき」を実践する人物こそがふさわしいというのだ。

 人にもっとも分け与える人物がリーダー。そんな世界では、富が一部に集中することはありえない。格差など生まれようがないのだ。

 しかし、そんなビッグマンが独占欲を見せたりすると、人々はそのビッグマンに見切りをつけ、彼のもとから離れていくのだという。そうして別の気前のいい人物がビッグマンとなる。

 ここまで読んで、「なんと素晴らしいシステム!」と叫び出しそうになった。日本の政治もこれを踏襲すれば、決して裏金問題など起こらないではないか。というか、権力と富の関係において、これほど合理的かつ透明性の高いやり方があるだろうか。権力が富を独占しない方法があらかじめ完成しているのだ。もちろん、世襲制もない。

 学校に行かず、一見民主主義とは程遠いように見えるプナン。だが、その姿勢は思い切り民主主義を体現しているように思える。

 著者はそんなプナンのあり方について、〈なんと儚い、最小限の権力であることでしょうか!〉と書く。

 さて、とうとう「心の病」についてだ。

 ここまでプナンをはじめとしてヘヤー・インディアンやエスキモーなどの事例を紹介してきたが、どれほど現代文明と距離を置いた暮らしをしていようと、「心の病」は多くの社会にみられるという。

 例えば焼畑稲作民カリスの社会には「ラオラオ」「マウノ」という様態があり、「ラオラオ」は「マウノ」への移行期。 マウノになると「情緒不安定で突然暴れて人を傷つけたり、来る日も来る日も道に石を積み上げたりといった行動」を見せるようになるという。

著者情報

作家、活動家

雨宮処凛

あまみや かりん

1975年、北海道生まれ。作家、活動家。反貧困ネットワーク世話人。バンギャル、右翼活動家を経て、2000年に自伝的エッセー『生き地獄天国』でデビュー。自身の経験から、若者の生きづらさについて著作を発表する傍ら、イラクや北朝鮮へ渡航を重ねる。その後、格差や貧困問題について取材、執筆、運動を続ける。『生きさせろ! 難民化する若者たち』でJCJ賞受賞。著書に『一億総貧困時代』『「女子」という呪い』など多数。

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