ロヒンギャ難民キャンプ再訪(2018年12月)
木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)
「今、私たちには電気も水道もなくてこのテントしかない。でも帰れば安全がない。国籍も移動の自由も、相変わらずもらえない。病院も学校もない。土地も家も失ったままなのは子どもたちも分かっている。それよりはこのキャンプの方がましだと考えている」(モハマドワイ)
ラカイン州に帰国しても学校も燃やされている。子どもたちは行き場がない。難民キャンプにいれば少しずつだが、国際的な援助団体によって子どもを支えてくれる施設もできつつある。連載第3回で紹介したように、在日ロヒンギャの支援で建てられた学校もある。いつになるか分からないが、ミャンマー国民としての本当の権利を手にして帰国するときのために、教育は受けさせなくてはいけないという考えが難民たちの間に浸透している。
ロヒンギャ難民の大きな特徴として、ミャンマーという自分たちを追い出した国に対して抱く、多大な忠誠心が挙げられる。バルカン半島や中東の難民キャンプを取材してきた筆者からすれば、これは大きな衝撃だった。コソボのアルバニア人はセルビアからの独立を希求し、イラン人難民はハーメネイー最高指導者による「宗教者独裁政権」の打倒を公言して憚らなかった。ロヒンギャはことほどさように差別を受けても、彼ら彼女たちが望むのはミャンマーへの同化の拒否でも、ましてやラカイン州の独立でもない。17年以来、国内外のロヒンギャ延べ100人近くに話を聞いたが、武装組織のARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)を支持する者にも、ラカイン独立を叫ぶ者にも会うことはなかった。希望はあくまでも、ミャンマー国民としてピンクの国民カードを取得してラカイン州に戻ることなのだ。
考えてみれば一世代上までは国民として認められていた人々なのだ。対イギリス独立戦争で闘い、ビルマ政府の閣僚になった人物を祖父に持つ者もいる。それ故に、ミャンマーを憎み、分離するのはその祖先に対する裏切りだと考えている。彼らの悲願は、ロヒンギャという民族的なアイデンティティーは保持しながらも、ミャンマーを構成する民族として承認され、従来通りの生活に戻ることだ。だからこそ、大人たちは学校で子どもたちにミャンマー国歌を歌わせ、ミャンマー語を母語として教える。少なくともこの学校からテロリストは生まれない。
スーチーの無力
72万人という難民の数は尋常ではない。ノーベル平和賞受賞者でありながらこのロヒンギャへの人権侵害を止められないアウンサンスーチー国家最高顧問に対しても、批判の声は大きく巻き起こっている。11月12日、アムネスティ・インターナショナルはかつて授与した「良心の大使賞」を取り下げた。それと示し合わせたかのように、韓国の人権団体5.18記念財団もまた12月18日、04年にスーチーに授与した「光州人権賞」を、ロヒンギャ問題に無関心という理由で撤回した。

アウンサンスーチー国家最高顧問
しかし、クトゥパロンキャンプに暮らすシャカマという70代の長老は、スーチーに対して失望は表しつつも想像以上に寛容な姿勢を示した。
「NLD(国民民主連盟。スーチーが党首を務める)に力はない。やりたいことがいっぱいあっても、ミャンマー軍の支配に抑え込まれている。私はスーチーはさほど悪いとは思わない。彼女は次の選挙を前に、今ロヒンギャを擁護すると勝てないことが分かっているのだ」
かつて軍事政権に軟禁されていたスーチーが最高顧問に就いたからといって、ミャンマーは民主化されたと認識するのは大きな誤りだ。08年に承認されたミャンマーの新憲法では、国会議員の25%は国軍最高司令官の指名枠になっており、実質的には文民統制どころか、軍が国会を牛耳っている。さらに、非常事態時には国軍司令官に全権が委譲される。つまりは軍のクーデターが合法とされるのだ。スーチーはそこにおいて飾り物に等しい。それに、国民の支持頼みの彼女がロヒンギャを擁護する発言をすれば、確実に票を失う。ことロヒンギャについては、ミャンマー都市部のリベラル層も、内政的な問題とはとらえておらず、あくまで人道的、倫理的な観点からしか擁護しないのだ。
被害者側であるシャカマのほうが、よほど冷静に政治を分析している。シャカマもまた親族を殺されているが、決して感情を表に出さない。
「選挙に負けるだけではない。彼女がロヒンギャの名前を出せば、コーニー弁護士のように殺される可能性がある。それも分かっているのだ」
コーニーとは、NLDの法律顧問を務めていた男性だ。新憲法の規定では国家元首になることができないスーチー(元首の資格として20年以上継続してミャンマーに居住した者、家族に外国人がいない者、などの規定があり、スーチーは適合しない)のために、最高顧問というポストを作って就任させたのがこのコーニーである。アイディアマンであった彼はロヒンギャにも理解があり、強権を持つ軍の力をいかにして弱めて民主化を進めるかを考え続けていた。法律家としての能力の高さもあったが、多くの民族に「彼の言うことだったら受け入れられる」と思わせるだけの人望や求心力も併せ持っていた。
しかし、17年1月29日、コーニーは政府使節団として訪問していたインドネシアから帰国した直後、ヤンゴンの空港で暗殺されたのである。犯人はカネで雇われた者であったが、クライアントは国軍と見られている。この死はスーチーを震撼させるに十分だった。今、スーチーは身動きができない。

2017年に殺害されたNLD(国民民主連盟)法律顧問のコーニー弁護士
凄惨な性暴力被害
難民たちの証言の聞き取りを続けると、組織的なレイプが至る所で行われてきたことが浮かびあがってくる。
クトゥパロンキャンプの一画に、ラカイン州ラティドン郡のショパラン村から逃れてきた女性たちばかりが暮らすテントがある。人口1300人の村からやってきたのが、なぜ女性たちだけなのか? この村の男性は殺されたのだ。そしてほとんどの女性たちが性被害に遭っている。今回、彼女たちは名前も顔も出して構わないと言って取材に応じてくれた。ムスリムの女性として大きな覚悟と勇気が必要であったことは想像するに難くない。言うまでもないことだが、彼女たちの証言は一例に過ぎない。
ロシダーナ(30歳)には5人の子どもがいた。家に軍が来て夫と2人の弟が殺された。恐怖におびえていると母親が外に出された。「私はそれからレイプされました。15人ほどが代わる代わるやってきました。服装を見ると犯人は軍と警察と969(ミャンマーの仏教系右派グループ)でした。どんな顔かは思い出せません」
バングラデシュに逃れてきてから、UNHCRが病院に連れて行ってくれた。
「レイプされた女性が妊娠していても、周囲の目もあるから隠すしかないのです」
コミュニティーでは、レイプ被害者がさらに差別されるという構造がある。
「私は夫も兄弟も殺された。でも子どもは生きているし、キャンプは安心して夜に眠れる」と、最後は自分を奮い立たせるように語った。
ロヒマハト(45歳)は息子の妻をレイプされた。
「ジェノサイドが始まる1週間前から、私たちへの制限は厳しくなり、飼っていた家畜が全部没収されて、家から外に出られなくなりました。事件の日は全員が捕まって、息子の嫁――義理の娘はレイプされて、鉄砲で撃たれて殺されました」
フマエラベゴンという名前で20歳だった。彼女には4歳の子どもがいた。
18歳のナシマハトは、自身も含め、若い女性だけが家族から引きはがされるように分けられたことを覚えている。彼女もレイプの被害に遭った。
「相手は軍と警察でした。10日かけてここに逃げてきましたが、病院には恥ずかしくていけませんでした。痛みもあったけれど我慢しました」
ファトマハト(30歳)は学校に連れて行かれた。「村に警察が入ってきて、近所の女性たちだけが校舎に連れて行かれて、そこでレイプされました。その後で学校が燃やされました。私はジャングルに逃れて、先に潜んでいた仲間に助けられました」
子どもは川に潜って隠れたという。
「子どもたちに再会して、『ママ、あのとき何があったの?』と聞かれました。私は何も言えませんでした」
その他、ハシナベゴ(25歳)、ヌルバ(35歳)、シャマル(40歳)。テントにいる女性たちが異口同音に被害状況を語る。それぞれレイプされた現場は家であったり、学校であったり、屋外であったりとバラバラであったが、「行為はどのように……」と聞いた途端、全員が一斉に同じ所作をした。
「目隠しをさせられたのです。身に付けているヒジャブ(ムスリムの女性が頭髪を隠す布)をこのようにして」

ロヒンギャの女性たちは、ヒジャブで目隠しされ、レイプされたと証言。
犯人がどんな顔なのか分からないようにした後に、複数の男が次々と犯行に及ぶ。レイプ犯が誰なのか、何人いたのか、不明にしてしまう。組織で共有されているマニュアルがあるかのような、画一的な集団暴行である。組織的に異民族をレイプして強制出産をさせた、ボスニア紛争時の戦争犯罪を思い出した。
彼女たちもまたラカイン州への帰国を願っている。しかし、人間の尊厳を踏みにじった犯罪者たちが、検証も訴追もされずに居座っている場所に、どうして帰ることができようか。ミャンマー政府が発信する難民の帰還の受け入れとは、今のままでは「セカンドレイプ」どころか、第3、第4のレイプの容認に他ならない。