ペーター・ハントケへのノーベル賞授賞で再燃したセルビアへのヘイト
木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)
より悪質なのは、ハントケがジェノサイドを肯定したというような思い込み、あるいはデマに基づくバッシングである。スウェーデン・アカデミーはこの事態を問題視し、異例の対応を行った。10月17日にマルムとルネッセンという二人の委員がスウェーデンの新聞に寄稿したのである。
「ハントケは著書『冬の旅 セルビアに対しての公正を』の中でスレブレニツァの虐殺を疑問視したり、否定したりはしていない。ハントケが虐殺を賛美した証拠は無い」「ハントケは政治的な問題で明らかに挑発的で不適切な発言を行ったことはあるが、われわれは彼の作品のなかに、市民社会を攻撃したり、すべての人が対等であることを尊重すること、それを疑問視するようなものは何も見出さなかった」
マルムとルネッセンは参考資料として2006年の南ドイツ新聞の記事を挙げている。ハントケはその中で「スレブレニツァの虐殺は、戦後ヨーロッパが犯した人類に対する最悪の犯罪である」としっかりと書いているのである。(以上、筆者訳)(4)
11月20日にはハントケ自らがドイツのツァイト紙のインタビューで以下のように答えている。
――ミロシェビッチの裁判や獄中の彼を訪問したのはなぜなのか?
「内的にも外的にも彼に頭を下げたことはなく、彼が語らねばならないことに耳を傾けようとした」
――ミロシェビッチの埋葬になぜ参列したのか?
「彼の埋葬はユーゴスラビアの埋葬だった。自分にとって、ユーゴスラビアは何か特別なものであった」小説『左ききの女』の中では、ドイツで差別されるマイノリティとしてユーゴスラビア人が登場している。
ハントケにとってミロシェビッチは「セルビア」ではなく、「ユーゴスラビア」の象徴であった。もちろん、セルビア人の民心を得るために機会に応じて民族主義者としてふるまい、コソボの自治権を剥奪して、古き良き民族融和の国ユーゴスラビアを壊したのもミロシェビッチであるが、ユーゴの国家継承権を持つセルビアの大統領として最後まで連邦の維持に固執した人物として敬意を表し、埋葬に参加したというのが彼の真意である。
またユーゴスラビア崩壊については、「カソリックのクロアチアやスロベニア、イスラムのボスニア・ヘルツェゴビナにも、それぞれ多くのセルビア正教徒が生活していたにもかかわらず、独立を拙速に承認したドイツの政治判断が内戦に繋がってしまった」と批判している。(以上、筆者訳)(5)
11月24日には際限の無いアンチ・ハントケキャンペーンに抗議し、ドイツ語圏の文学者、出版業者、翻訳家などによる声明発表と署名活動が起こった。
ミロシェビッチと他の民族主義指導者との対比
ここでしばし、ミロシェビッチ論を展開する上で、同じくユーゴ紛争時における民族主義者の代表的存在であるフラーニョ・トゥジマン元クロアチア大統領との比較を述べておきたい。
クロアチアのユーゴからの独立は、トゥジマン率いる極右政党HDZ(クロアチア民主同盟)が1990年5月の選挙で大勝したことから始まる(余談だが、この直後にサッカーのユーゴ代表とオランダ代表のテストマッチがクロアチアの首都ザグレブで行われた。クロアチア人サポーターはユーゴへのブーイングを繰り返し、オランダを応援するという行動に出て、当時のユーゴ代表監督であったイビツァ・オシムを苦しめている)。
1998年から駐クロアチア日本全権大使として現地の調査活動も精力的に行っていた故・大羽奎介氏は、外務省退官後にこんなことを語っていた。
「トゥジマン大統領もまさかクロアチアが独立できるなどとは考えていなかった。そこに統一後のドイツから水面下で『独立宣言をすれば、承認してやる』というメッセージが入った。東西冷戦の終結後、親ドイツの国を確保しておく必要があったのでしょう。それでトゥジマンは独立する気になったのです」
トゥジマンは、第二次大戦中にナチスドイツの傀儡国であったNDH(クロアチア独立国)の正当性を主張した。セルビア人を多く含む約150万人が犠牲になったといわれる、ヤセノバツ絶滅強制収容所におけるジェノサイドについても否定している。いわば大統領が歴史修正を行ったのである。大羽大使は亡くなる直前までトゥジマンの罪について、またドイツとクロアチア、アルゼンチンに逃れていたNDHの戦犯について糾弾していた。外務省退官後に出版を考えておられたが、それが急逝によってなされなかったのが何より残念である。
トゥジマンは1995年にクロアチア全土のセルビア人に対して「嵐作戦」を指示し、約20万人を国外に追い出すという民族浄化を行ったにもかかわらず、ICTYにも訴追されず、今でも独立の英雄としてのイメージがまかり通っている。
国際社会による、ミロシェビッチとトゥジマンの扱いのギャップはあまりにも大きい。ハントケの怒りはこの不公正さに向けられているのだが、それが理解されるように報道されない。
吹き荒れるアンチ・ハントケキャンペーン
ノーベル賞授賞式の前には、トルコのエルドアン大統領がハントケをレイシストとして非難。エルドアンがトルコ国内に住むクルド人をいかに弾圧迫害しているかは、広く知られたところであり、こうなってくると、文学者に対する批判というよりも政治闘争でしかないように思える。他方、ドイツの極右文化人として知られるゲッツ・クビチェクがハントケを擁護する発言をして、ますます誤解と混迷を広げている。父がナチス党員であった、という原罪を背負うハントケにとって、アウシュビッツでの虐殺を否定するクビチェクから擁護されることは迷惑以外の何ものでもないであろう。
12月2日にスウェーデン・アカデミーの外部委員の二人が辞任を発表するが、そのうちの一人はハントケの受賞に対する不満を理由としている。
ストックホルムで12月10日に行われた授賞式本番では、トルコ、クロアチア、アルバニア、コソボなどの大使が欠席している。コソボのハシム・タチ首相もまたハントケの受賞を批判したが、タチこそ、コソボでセルビア人、ロマ、非服従のアルバニア人など多くの民間人を拉致してアルバニアに連行し、臓器を摘出しては売りさばいていた国家的臓器密売組織への関与が、欧州評議会法務人権委員会によって指摘されている。
私は2013年の取材であったが、アルバニア北部の山中で臓器摘出の現場となった施設、通称「黄色い家」の管理人から、タチ首相と関係があることを直接聞いている(連載第5回)。臓器売買という人道に背く行為をしていたとされる人物が、言論という非暴力の活動を続ける作家を非難するということ自体、不可解だが、それを何の批判も検証もなく垂れ流しているメディアには、何か意図があるようにさえ感じてしまう。
12月11日、コソボ政府はハントケの入国を禁止した。

ハントケへのノーベル文学賞授賞に抗議する横断幕(2019年12月10日、ストックホルム)
今も残るセルビアへのヘイト
ハントケはユーゴスラビア主義者としてのミロシェビッチを擁護はしても決してジェノサイドそのものを肯定するような作家ではないことは作品を読めば分かる。いわゆる「1968年世代」とは異なって、むしろ政治とは距離を置き、前衛として世に知られた。脚本を担当した映画『ベルリン天使の歌』や、自死したスロベニア系の血を引く母親を描いた『幸せではないが、もういい』にも通底するが、言葉の存在の仕方を常に模索し、マジョリティの共感に依拠しない、そんな実験的な作風である。文学的評価については、ドイツ文学者で翻訳家でもある元吉瑞枝氏が「彼の原点である、世界に向けられた言葉をめぐる闘いを内包しつつ、自己や世界についての探求のプロセスを表現したものであるが、近年は、流通している(「通りのいい」)多数者の言語に対して固有の感覚的な手触りのある言葉や想像力を対置させる方向をいっそう明瞭にしている」と語っている。(6)
はやりの政治的なポジショントークの観点から言えば、セルビア政府からさえ見捨てられ、ICTYにその身柄を差し出されたミロシェビッチを擁護することは、多大な非難こそ受けても何のメリットもない。これほど割に合わないことはないであろう。最高権力者に媚びを売る御用本を書くことで著作の多大な組織買いを得ることができる日本の「作家」と、ハントケはそもそもが決定的に違う。
今や作家がサダム・フセインやオサマ・ビン・ラディンを相対的観点から称賛しても、これほどまでのバッシングは受けない。ひるがえって、ハントケによるミロシェビッチ追悼に対しては20年を経た後もヒステリックなまでの非難が続く。しかも、ほとんどの批判はハントケの文学については一切触れていない。そこに、いまだに世界が抱き続けるセルビアへヘイトを目の当たりにする思いである。メディアの上で何の背景も文脈も説明されないままに「親セルビア」というワードが批難の根拠に用いられること自体、極めて危険な差別煽動だ。
私自身、1998年に現地に入るまでは、セルビアは一方的な加害者という単純な図式でしか見ていなかった。だからこそ、これは伝え続けていきたい。