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連載

「ロヒンギャヘイトに加担しない」~あるミャンマー難民が語る「人権」

第20回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

「面会に来てくれたのが渡邉彰悟弁護士やった。品川の大使館に抗議行動に行っとったときから、難民救済については有名な先生やと僕も知っていた。渡邉先生は、『あなたは有罪判決を受けたけれど、日本政府に裁判を起こしますか』と聞いてきた。でも僕はそれは断ったんや。僕は自分の都合で勝手に日本に来たんやから。でも難民申請はお願いした。僕はミャンマーに帰ったらまた逮捕されてしまうからね」

 渡邉弁護士は手続きに入ってくれた。アウンミャッウインは難民審査参与員にインタビューを受け、ミャンマーを追われた経緯、日本での生活、帰国すればどうなるのかを話した。しかし、申請後、いつまで経っても何の回答もなかった。非認定であっても結果が出れば再申請という手段に移ることが出来るが、それすら出来ずにただ待つだけであった。
 その間、必死に独学で日本語を勉強した。5カ月が経過すると、新しく出来た茨城県牛久の東日本入国管理センターに移された。難民申請は認められず、2年間収容されていた。

茨城県牛久市の東日本入国管理センター外観

「忘れられない。牛久の収容施設4ブロックの10号にいました。錆びた赤い水しか出なくて、飲みたくないと言うと懲罰室に入れられました」

 入管の収容施設の中でその住処である「4B10」という詩を書いた。ミャンマーは今どうなっているのか、なぜ自分はこんな目に遭わなくてはならないのか。理不尽な境遇に対する言葉がほろほろとこぼれ出た。牛久入管での絶望を表した詩には、2年間の拘束の後、「仮放免」(収容の一時的な解除。就労が禁止され、居住する都道府県からの移動が制限される)の許可が出て出所すると、友人が曲をつけてくれた。さらに知人のビデオカメラマンの手によって映像化された。YouTubeで今でも見ることができる。

https://youtu.be/afM10N4aZCU

 

「仮放免」からの難民認定だが、喜びはもはや……

 アウンミャッウインは、ようやく外に出られることになったが、仮放免はその名の如く、あくまでも仮の「リリース」であり、月に1回入管にその更新に行くことを義務付けされている。非人道的なのは、更新時に、何の前触れもなくそのまままた収容されるという例が多々あることである。そこには法的に何の合理性もない。ただ入管の胸三寸である。「入管よりも刑務所の方が、(法律に基づくゆえに)ましだ」と言われる所以でもある。アウンミャッウインは3回目の更新の前に入管に呼ばれた。

「また逮捕やと思った」

 覚悟を決めて出頭した。職員がいつもと違う口調で言った。
「あなたは難民認定されました」
 2004年8月15日のことだった。ほぼあきらめかけていた難民申請が認められたのだ。不思議と何の感情も湧いてこなかった。それまで38回のヒアリングを受けていた。朝早くから小さな暑い部屋に呼ばれ、その度に同じことばかり聞かれた。あなたの名前は? 父は? 母は? 何で日本に来たのか? 「この前、聞いたでしょう!」と言いたくなる気持ちをぐっと抑えて向かった。
 認定に続けて、職員は言った。
「あなたは日本の法務大臣から、認められました。嬉しいですか?」
 静かに返答した。
「そんな気持ちはもうない。2年間も僕は収容された。仮放免されても仕事をしたら、逮捕される。こんな扱いをされたことに疑問を感じますね」

難民として生きる中、大学を志す

 アウンミャッウインは2年ぶりに焼肉店に連絡を取り、再び働き始めた。店員の人たちは皆、また温かく迎えてくれた。料理主任には特にお世話になった。料理の腕もぐんぐん上がった。やがて生活にゆとりが出てくると店のスタッフに言った。
「俺、大学に行くからここを辞める」
 このときの心境をこう語る。

「僕が日本に来たのは肉を切るためやなかったことを思い出した。僕はミャンマーで時間が止まっていて大学生のままやった。だからもう一度学び直したかった。焼肉屋は辞めることになるけど、店のみんなは、応援する!がんばれ!と言うてくれた。めっちゃ嬉しかった。何を学ぶか考えた。ヤンゴン大学では文学部の学生だった。でも難民になって人生経験を経て、法律の大切さが身に染みた」

 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)による難民高等教育プログラムを利用して関西学院大学の法学部に入学した(彼の関西弁はここから始まる)。学部を卒業後は大阪市立大学の大学院に進み修士論文(“The Survival Strategy of a Burmese Asylum-seeker”「ビルマ難民申請者の『生き延びる』ための戦略」)を仕上げた。その評価は高く、ドイツのボーフムの大学に招かれて非常勤講師などを担った。一方でビジネスにも手を広げ、自ら介護職の資格を取り、介護ビジネスのオフィスを立ち上げた。さらには料理の腕を活かしてミャンマー料理のレストランを開くに至った。

「ミャンマービレッジ」の中にはミャンマーの国旗が掲げられている

人権を学べば、差別はなくなる

 今、アウンミャッウインは、あまりにも多いミャンマー出身者によるロヒンギャへのヘイト発言に怒っている。

「ミャンマー版の『ネトウヨ』でもある彼らは僕と議論になると絶対に負ける。それは僕が正論を言うからや」

 スーチーを支持して民主化運動に邁進した「88運動」の人たちでさえ、ロヒンギャというワードが出た途端、すごく差別的になる。これはなぜなのか。極めて本質的なことをアウンミャッウインは分析した。

「もともと、あの民主化運動は人権意識で活動していたんやない。今、思えば僕たちは民主主義というよりも自由を求めていただけやった。単に独裁者、独裁政権を倒したかっただけ。88運動世代の人にしても軍事政権のもとで生まれて育ってきた人たち、やから、彼らは人権教育を受けたことがないんや。受けていた教育は、国を愛するとか、仏教はすごいぞ、という程度のレベルでしかなかった。
 ロヒンギャ問題について、一番今のミャンマーに必要なのは、人権教育の支援やよ。それも小学校からの。それこそが本当のロヒンギャ支援ですよ。僕たちは軍事政権の下で生まれ、そこで大きくなり、人権と言う言葉さえ知らんかった。僕たちが学んでいたのはミャンマー型の社会主義だけや。いわば洗脳ですやん。政治学を学ぶことができなかったことを僕たちミャンマー人は素直に認めないとあかん。
 僕がロヒンギャの存在を知ったのは9歳のときやったけれど、そのときはお父さんもお母さんも『あいつらは不法入国者でテロリストたちだ』と言っていた。でもあとから、それは偏見だったと気づいた。そもそも万が一、不法滞在者やったとしても迫害や弾圧をしてはいけない。不法移民はどこの国でもある。それでも人権として宗教の自由、移動の自由、結婚の自由、結社の自由を担保するべきや」

 88世代の民主化運動が単に強権政治に対する打倒行為でしかなかったというのならば、今、自身が纏っているこれら人権への意識はどこで学んだのか。

「僕が日本に来て、そこで通った大学で、です。関西学院大で、人権教育を学びました。法学部政治学科の国際関係コースの中の国際人権を専攻して移民と難民について研究したのです。大阪市立大では都市政策共生社会分野。それで僕は、『これは差別』『これは悪い』という判断がようやくできるようになったんや」

 最後にぽつりと大事なことを口にした。

「まあ学問というよりも基本的な人権のことさえ、ミャンマーの国民はわかったらいいんです。それはめちゃくちゃ簡単なこと。自分たちがされて嫌なことは、人にはしないということや。僕たちはまだ浅くて若いけれど、地球とともに人類も時間を重ねていけば、民族とか言葉の壁を全部乗り越えていくと思うのです」

 話し終えると厨房に戻った。今日もアウンミャッウインは料理の仕込みに余念がない。難民として生きる術として体得した技。丁寧に出汁を取り、肉を裁く。モヒンガー(魚のスープ麺)の重厚な香りが鼻をくすぐる。ランチを終えた直後だったが、今聞いた話が、さらに食欲を刺激しているのは言うまでもない。

現在コロナ禍で、「ミャンマービレッジ」は休業を余儀なくされているが、アウンミャッウインは感染者数の動向を見て再開する決意をかためている。

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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