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連載

「助けるのは当たり前」~小学生が立ち上げたロヒンギャ支援

第21回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

館林で子どもたちが立ち上がった

 群馬県館林市に暮らす小学6年生、鈴木聡真君が母の由希子さんから「ロヒンギャって知ってる?」と聞かれたのは、2020年5月、新型コロナウイルスの影響で学校が休校している最中だった。

「ぼくは何も知らなかったんです。それでインターネットやYouTubeでロヒンギャという言葉で調べてみたら、すごく酷い目に遭わされている人たちだと分かったんです。虐殺されたり、家を燃やされて難民になっている現状を知って、びっくりしました。そしてそのロヒンギャの人たちが僕たちの住む館林に約260人も生活していることも知って、何とかしなきゃと思ったんです」

 ミャンマー西部のラカイン州に生活するイスラム教徒=ロヒンギャは、国内における弾圧と迫害を逃れて世界中に離散している。日本でも、1990年代から難民として来日する人々が定住を始め、今では在日ロヒンギャの約9割が館林に居住している。

 国連が「世界で最も迫害されている」と表現するこの民族のことを息子に問うた由希子さんは、当時のことをこう振り返る。

「私もそれまでロヒンギャのことは知らなかったんですが、聡真の妹の杏の同級生に一寸木(ちょっき)大喜君という男の子がいて、その子のお母さんの真弓さんから、館林に居住されていると聞いて無関心ではいられなくなったんです。休校中は、小学生もパソコンでの作業がすごく多くて、毎日いつもパソコンを開かなくちゃいけない状況だったんで、聡真が自分で調べて最後の方はむしろ私に教えてくれました」

 由希子さんのママ友である一寸木真弓さんはどのようにしてロヒンギャの存在を知ったのだろうか。

「私の母が館林でロヒンギャの支援をするサークルに所属していて、当地に定住しようと努力している人たちに日本語を教える活動をボランティアでしていたんです。教えていた子どもたちがもう社会人になっていますから、かれこれ一世代ですね。だからロヒンギャという人たちのことは知っていましたが、私はそれまで特に何かをしていたわけではないのです。でもコロナ禍になって何か支援できないかなと考えて鈴木さんに話をしてみたんです」

 一寸木さんと鈴木さんはかねてより地元に根ざした活動として老人ホームなどへの慰問を重ねてきた。ロヒンギャは自分たちとは国籍も人種も民族も異なるかもしれないが、同じ館林に暮らす人たちである。彼らの同胞が難民となって苦しんでいるならば、それに対して何かできないか。このことがきっかけで会話がなされたのであるが、これが聡真君の耳に入った瞬間から、子どもたちの活動が始まった。

 聡真君を中心に妹の杏さん(10歳)、杏さんの同級生の一寸木大喜君(10歳)、大喜君の弟の悠喜君(8歳)、ともに私立の小中高一貫校「ぐんま国際アカデミー」に通っている4人が熱心にロヒンギャについての勉強を始めた。授業では教えてくれない民族問題であり、そもそも休校中でもある。学びはインターネットによるものとなった。当然ながらつらい動画が多い。

一寸木大喜君(左)、鈴木聡真君(左奥)、鈴木杏さん(右手前)、一寸木悠喜君(右奥)

 特に2017年8月に勃発したミャンマー軍や警察、民兵組織によるロヒンギャに対するジェノサイドは熾烈を極めていた。約80万人が隣国バングラデシュに追い出されており、ウェブ上には思わず顔をそむけたくなるような酷い画像も散見される。見ていてつらくならなかったですか?と問うと杏さんと大喜君が口々に答えた。

「つらいときもありました。でもロヒンギャの人たちを助けている動画もあってそれがすごくいいなと思えて。自分たちも支援したいと考えたんです」

在日ロヒンギャ難民、アウンティンに会いにゆく

 6月、館林には在日ビルマロヒンギャ協会を立ち上げた人物、アウンティンがいるということを知ると、自発的に4人で会いに行った。
 アウンティンは快く迎え入れた。

 子どもたちに、ロヒンギャの迫害の歴史的な経緯と何より自分がなぜ故郷ミャンマーを離れて日本に来たのかを話した。アウンティンは1968年5月にラカイン州で生まれた。当時のミャンマーは軍事独裁政権を敷いていた。17歳で民主化運動に身を投じるも、ロヒンギャというだけで生命の危険にさらされた結果、1990年、隣国タイに逃れてからは生々流転の人生を歩んだ。イスラム教徒の多いマレーシアに移動、次にバングラデシュに居を移して情勢を見入り、サウジアラビアの就労ビザを取得した。サウジアラビア・メッカ州の都市、ジッダで仕事を始めてようやく生活が安定してきたが、故郷に民主主義を根付かせたいという初心は忘れていなかった。

「私にとってお金を稼ぐことは一番大事な問題じゃない。それよりもミャンマーから離れている国にいたくなかった。それでサウジを離れて1992年に日本に来ました」

 現在は日本国籍を取得しているアウンティンは、祖国を追われてバングラデシュに逃れた約80万人のロヒンギャがいま、どのような状況にあるのかを訥々と語った。子どもたちにとっては、アウンティンが感極まって涙を流す姿が特に胸に響いた。

「アウンティンさんはミャンマーを出てから、もう何十年もお母さんと会っていないと言っていて、それがすごく心配になりました。難民キャンプにアウンティンさんが建てた学校の話を聞いて、日本に来ても仲間のことを考えているのだと思いました」(大喜君)

アウンティンさん(右手前)

「アウンティンさんと最初に会ったとき、僕はまったくの無知識でした。ロヒンギャに関して、次に会うときまでにちょっと調べ直したら質問がどんどん増えて、予定していた時間より長くなっちゃったんですが、全部答えてくれました。館林に住んでいる人たちのことも思い当たりました。僕が参加しているサッカーチームは中学校のグラウンドを借りているんですけど、その学校にお祈りの部屋があると聞いたことがありました」(聡真君)

 近年、館林市は行政として外国人の包摂を進めている。例えば市立第十小学校は外国にルーツを持つ子どもたちを積極的に受け入れており、日本語教育をはじめとしてそれに対応したカリキュラムも組んでいる。市はロヒンギャの受け入れにも熱心に取り組んで来た。小中学校では、イスラム教徒であるロヒンギャの子どもたちのために祈りの部屋を常設したり、ラマダン(断食月)のときには無理をさせずに早めの帰宅をうながすような指導も行っている。ロヒンギャのみならず、イスラム教徒の子どもたちが一定数に達すれば、給食にハラルフード(イスラム教の戒律に照らして、摂取を許されている食品)のメニューを加えることも検討している。

 同じ町に暮らしているアウンティンは、難民申請が認められない中、想像を絶する努力をして、今では豪奢ともいえるマイホームを館林に建てている。難民というイメージからは大きく遊離したその家の中で聞く話は、しかし、経済の成功者としての自分語りではなく、常に苦境にある同胞に対する憐憫と雅量に満ちたものであった。アウンティンはかたときも難民のことを忘れずに支援を続けている。このことは子どもたちの想像力を大きく刺激した。

 4人はこんな気持ちになっていたという。

「ロヒンギャの子どもたち、僕たちと同じ年ごろの子どもたちは、お母さんが目の前で殺されちゃったり、お父さんが連れていかれたり、そんな酷い目に遭っている。僕たちもそれを知ったからには黙っていていいわけじゃない」

記者会見に参加

 支援をしよう、何か物資などを送ろうと動き出した。サッカーをしている聡真君は難民キャンプの子どもたちがボロボロのボールを蹴っている写真が気になっていた。彼らに新品のボールを送りたい。4人は真弓さんからクラウドファンディングの手法を聞くと、これを目標に定め寄付金を募ることにした。

 夏休み中にクラウドファンディングを始めようと動き出した。はじめての準備に手間取り、ようやく8月25日にスタートすることになった。その報告に在日ビルマロヒンギャ協会の事務所に向かうと、そこでは記者会見が行われていた。8月25日は奇しくも3年前にラカイン州でミャンマー軍によるロヒンギャへの大規模な「民族浄化」が始まった日である。在日ビルマロヒンギャ協会は今も続くこの未曽有の悲劇に対する声明を日本のメディアに向けて出す必要があったのだ。

「記者の人たちがいて、アウンティンさんからそこで『自分たちの活動のことを言って』と告げられてびっくりしました」(聡真君)

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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