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性知識イミダス:女性の「産まない」選択はなぜ制限されるのか(後編)「不妊手術」という選択の背景にあるもの

イミダス編

(構成・文/加藤裕子)

 ――今回の訴訟に対し、どのような反応が寄せられたか教えてください。

 実は、炎上などのネガティブな反応は、予想していたほど起こりませんでした。ポジティブに受け止められているというより、単に世間の理解が追いついていないのだと思います。
 それでも、「生殖能力への違和感を理由にそれを取り除くことが認められるなら、自分に右手があることに違和感があって、右手を切り落としたいという人も認めるのか」というような意見はありました。
 しかし、これはまったくナンセンスです。まず、健康な右手を切り落とす手術が医学的に有効なものとして認められていないのに対し、不妊手術は既に世界中で行われている医療です。両者を同列に論じるのは、議論の前提自体が間違っています。
 もう一つ言うなら、日本では儒教的な価値観の名残りか、「親からもらった身体」を損なうことへの抵抗感も強いように思います。しかし、そうした考え方で個人の権利を制限することは、法的には意味をなしません。

 ――もし、日本で不妊手術が要件や罰則なしに行われるようになったら、本人の意思ではないのに不妊手術を受けさせられるような、「悪用」のおそれはないでしょうか。

 かつて優生保護法のもと、障害者などに対して、本人の意思を無視した強制的な不妊手術が行われたことは事実ですから、同様のことが起こるのではないかという懸念があることは理解できます。実際、一般の人から、法改正後には性産業等で不妊手術が「悪用」されるのではないかという意見が寄せられたこともあります。しかし、それはあくまで運用上の問題であって、法律の建て付けとはまったく別の話です。日本国憲法第13条では、公共の福祉に反しない限り、個人の権利は尊重されます。「悪用のおそれ」は公共の福祉とは言えず、今回の原告の方たちのように、非常に切実で確信的な決定に基づいて不妊手術を受けようとしている女性たちに対し、「おそれ」程度でその権利を制限できる根拠があるとは思えません。
 たとえば米国では何の要件もなく不妊手術を受けられますが、一定の熟慮期間を設ける等、本当に当人の意思で手術を受けようと思っているかどうかを慎重に見極めています。このような医療側の工夫は、日本でもできるはずです。

少子化なのに産まないのは「わがまま」?

 ――「妊娠したくない」「産みたくない」と女性たちが表立って言いにくい背景には、「日本は少子化なのに、そんなことを言うのはわがままだと思われるのでは」「不妊症で産みたくても産めない人がいるのに、産める自分が産みたくないと言ってもいいのか」といった気持ちもあるのではないでしょうか。

 女性の人権の問題と、少子化問題とは切り分けて考える必要があります。戦前ならいざ知らず、現在の日本では、子どもを産むかどうかは個人が選択し、決定する領域です。「お国のために子どもをたくさん産むのは女性の義務だ」と発言することは、本音はともかく、公的にはタブーのはずです。また、不妊症の方への配慮が必要だからという理由で、産みたくない人に無理やり産ませていいはずはありません。
 日本の少子化は大きな問題ですし、子どもを産みたいと思う女性、また2人目3人目の子が欲しいと思う女性が、経済的な事情や子育て環境を気にせずに安心して産める社会になってほしいと、私も心から願います。そうした社会と、産みたくない人が何の制限もなく不妊手術が受けられる社会は両立するものです。産みたい女性が産む権利、産みたくない女性が産まない権利、それぞれ尊重されるようにならないといけないと思います。

 ――今回の訴訟で印象的なのは、「不妊手術を受けたい」という、日本ではまだあまり認知されていない問題について、5人もの原告の方々が声を上げられたことです。若い女性という叩かれやすい立場にありながら、不妊手術を受ける権利を堂々と主張する姿に感銘を受けました。

 梶谷かじや 風音かざねさん以外の原告の方々は仮名で、マスクを着用しています。私たち弁護団も最大限のガードはしますが、裁判の過程でプライバシーが明らかになる可能性はゼロではありません。それを承知の上で一歩を踏み出してくれた5人の方には、心から感謝しています。
 声を上げ、行動を起こすことは、本当は自分も参加したいけれど恐れや不安を抱いて動けないでいる人々に勇気を与えるのだと、今回の訴訟で改めて実感しています。たとえば、第1回の口頭弁論で、原告のひとりはリスクを考慮して、原告席ではなく傍聴席に座ることを選びました。ところが、他の原告の方たちが意見陳述をしている様子を見て、「次からは原告席に座りたい。もし機会があれば、自分も意見陳述をしたい」と言ってくれたんです。おそらく、法廷に立った方たちの勇気や信念が、彼女の行動を変える力になったのだと思います。

 ひとりでひっそりと裁判の傍聴に来る方を何人も見かけるというのも、今回の訴訟の特徴です。これは支援団体にサポートされる他の公共訴訟では見られない光景で、法廷を出た後、梶谷さんのところに駆け寄り、「よくこういう裁判を起こしてくれました」と涙ぐみながら声をかける姿は、見ていて胸を打たれました。日本では、結婚していて子どもがいない女性は「欲しくても、できなかったのか」という目で見られ、「子どもは欲しくない」という女性がいることは想定外におかれがちです。私たちのもとに寄せられる声からも、そうやって存在しないことにされてきた女性たちが、今回の裁判を応援してくれていると感じます。ひとりでも多くの方に、この裁判に関心を持っていただければ嬉しいです。

* * * * *

【2026.3.30編集部追記】
 2026年3月17日、東京地裁で「わたしの体は“母体”じゃない」訴訟の判決が下り、原告の請求は棄却された。
 判決では、まず、憲法13条は、女性に対し、「人格的生存に関わる重要な権利」として、国家の介入・干渉を受けずに妊娠しない決定ができる「避妊の自由」を保障しているとした。ただし、不妊手術以外にも避妊の手段が複数あることなどを理由に、「不妊手術を受けることが人格的生存に不可欠であるとは言い難い」と判断し請求を棄却した。
 一方で、現行の母体保護法で規定されている不妊手術要件のうち、今回の裁判で問われた「配偶者」の同意と、「現に数人の子を有し」ているという要件については、「合理性に乏しい」、制度の在り方について「適切な検討が行われることが望まれる」と付言した。
 原告側は、判決を受けて即日控訴。
 判決後、亀石倫子弁護士をはじめとする弁護団は、避妊の自由を明確に認めた点と、不妊手術要件の検討をうながしている点を特に評価し、「性と生殖に関する自己決定の実現に向けて一歩前進」とする声明を発表している。

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イミダス編

いみだすへん

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