いのちの政治学~コロナ後の世界を考える 「今、リーダーに必要なこととは?」(前編)
(構成・文/仲藤里美)
中島 政治家ではないのですが、私が「コトバが語られている」と感じたのは、日本相撲協会の八角理事長が、三月場所の千秋楽で挨拶したときです。彼は話し始めに、ぐっと涙を堪えるように黙り込みました。そして、「元来、相撲は世の中の平安を祈願するために行われて参りました」と話し、最後に新型コロナウイルスによって亡くなった人たちへの哀悼の意を述べたのです。
これもまた、非常に平易な表現でしたが、「コトバがあふれている」ところがあったと感じました。それはやはり、この状況下で開催していいのかどうかを悩み、最終的に無観客でやる、しかし一人でも感染者が出たら中止するというぎりぎりの選択をした八角理事長の、さまざまな葛藤や苦しみが表れていたということだと思います。逆に言えば、我が国のリーダーには、そうした葛藤や苦しみがないから、コトバが表れてこないのではないかと思うのです。
若松 プロンプターに映し出される言葉とは違って、コトバはその人の中からしか出てきません。内在するものがなければ、コトバは何も出てこないのです。
メルケルにしても康京和にしても八角理事長にしても、それまでの政策や行動への評価はさまざまかもしれません。それでも、彼らの中には言葉を超えて蓄えてきたものがずっとあり、それが今回のような危機の状況になって一気に湧出してきたということだと思います。
中島 勉強ができるとか、哲学を知っているとか、そういうことではないんですよね。誠実に、真摯に現実と向き合い、葛藤しながらいろんな痛みを経験してきた人間からは、おのずと言葉にならないコトバが発せられてくる。それを人はどこかで感じ取るからこそ、その人と一緒にやっていこうと思えるわけです。そうしたコトバを発せられる人こそがリーダーなのではないでしょうか。そのコトバが我が国のリーダーには存在していないということが、今回の危機であぶり出されたと思っています。
若松 コトバを生み出すのは、「無私」の精神だと思います。ここでいう「無」は、「私」を無くすということではなく、超えていくということです。英語でいえば「no self」ではなく「beyond self」、私自身を包み込みつつも私を超えていくというイメージです。それができていることが、コトバが発せられるための最低条件だと思うのです。
「私」を超えるということは、代わりに何かが前に出てくるということです。それは場合によって民衆の声であったり、相撲の歴史であったりするけれど、自分よりも前に出てくるものがあったときにコトバが発せられるのだと思います。
「自分を超えて何かを前に出す」というのは、なにも特別なことではなくて、たとえば親と子の関係などではしばしば見られるあり方のはずです。しかし、それを政治の場、あるいは危機が迫っているような場面で実行できる人は非常に限られている。それをできる人こそが、リーダーなのだと思います。
「命の統計学」から「いのちの政治学」へ
中島 言葉とコトバの話に続いて、今回の対談のタイトルにもしている「いのち」についてもお話ししていきたいと思います。
私は「いのち」という言葉を、肉体的な生命を指す漢字の「命」よりももっと幅広い、人間の尊厳などを含み込んだ概念を指す言葉として使っています。私たち人間は、単に命だけを生きているのではない。身体は生きていても、いのちが失われてしまうことはあるし、逆に命は失われても、いのちが生きていることはあり得る。自由を奪われ従属を強いられた奴隷は、命はあっても、いのちが消えているかもしれない。死者は命がなくても、多くの人に想起され、振り返られることでいのちを保っている。そういう関係性が存在していると思うのです。
新型コロナウイルス感染症によって何人死亡した、陽性反応が何人出たなど、数値化したデータが表すのは、この「命」のほうだけの問題です。しかし、そこで問題になるのは、では「いのち」のほうはどうなのか、ということ。病気にかかったかどうかにかかわらず、私たちは今、誰もがいのちの危機に瀕しています。そこにどういうメッセージを届けられるかが、リーダーにとって非常に重要ではないかと思うのです。
今の政治においては、統計的な数値によって表される命の問題ばかりが語られがちです。この「いのちの政治学」の対談ではそうではない、いのちに語りかけるようなコトバや政策とはどういうものなのかを考えたいと思っています。
若松 「命」というのは、計量かつ論証可能なもの。対して「いのち」とは、計量も論証も不可能で、けれどたしかに存在すると実感できるものだと思います。私たちにとっては両軸がどうしても必要であって、メルケルの話も、その両方をしっかりと見据えているからこそ私たちの胸に響くのではないでしょうか。
数字や言葉だけでは示せない、いのちというものをどう分かち合っていくのか。それが「いのちの政治学」だと思います。
中島 若松さんは最近、こんなツイートをされていました。
愚劣な政治は「いのち」を簡単に量に換算する。数字で語る事で理解したと思い込む。だが、現実はまったく違う。病むのはいつも誰かの大切な人であり、世界でただ一つの存在だ。これが「きれいごと」にしかならないなら、文学も哲学も芸術も不要だろう。これらはつねに、「いのち」の表現だからだ。(2020年3月14日)
おっしゃるとおりだと思います。そして、計量可能な命の面ばかりを語ろうとする人たちはいつも、その「量」をごまかそうとします。被害を小さく見せようとし、逆に危機を煽ろうとするときには数値を大きく見せようとする。それがこれまで行われてきた「命の統計学」だったのではないでしょうか。私は、そこにコトバを突きつけることで、それとは違う「いのちの政治学」の地平を開いていきたいと思うのです。
「命の統計学」の象徴が、水俣病の問題ですよね。被害をとにかく小さく見せようとごまかしが続けられた結果、救えたはずの多くの命が失われていった。そして、尊厳や社会関係といういのちまでもが奪われた。私たちが水俣から学ぶべきことは、非常に大きいと思います。
若松 現代においては、「数ではっきりと示せない」ことと、「存在しない」ということが、同じこととして扱われるようになっている気がします。でも本来、その二つはまったく別のことのはずです。
たとえばアウシュビッツにおけるユダヤ人虐殺について、600万人も殺されたなんて嘘だ、だからジェノサイドではなかった、などと主張する人がいます。しかし、ジェノサイドというのは、亡くなった人の数の問題ではないのです。仮に600万人という数字に誤りがあったとしても、亡くなったのが一人だったとしても、アウシュビッツで行われたことは許されてはならないはずです。
中島 私の専門の政治学で必ず学ぶことの一つに「統治の原理」というものがあります。ある国が植民地を支配するときに何を重視するかということなのですが、その大原則が「数を数える」ことと「分類する」ことなんです。
たとえば、イギリスによるインドの支配においても、最初に行われたのはインドの人々に「宗教は何か」「カーストは何か」といったことを尋ねて集計する、いわば国勢調査でした。実はそれまでのインドでは、宗教の境界線は曖昧で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が明確に区分されていたわけではなかったのです。そもそも、ヒンドゥー教という概念が成立しておらず、一枚岩の宗教という認識もなく、さらにカーストの区別も明確ではありませんでした。イギリスはそれを無理やり、あらかじめ分類したカテゴリーにあてはめていきました。どういう分類の人がどこに何人住んでいるのかを把握することで、徴税をはじめとするいろんなシステムをつくっていくというのが、近代国家の原理だからです。
私は、この数と分類による「統治の原理」を超えたところにこそ、本当の政治があるのではないかと思っています。そして、そこを知るためには、いわゆる政治学だけではなく、文学や宗教といったものに接近していく必要がある。そこから「いのちの政治学」が見えてくると思うのです。
*後編につづく。「今、リーダーに必要なこととは?」(後編)はこちらです。