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連載

第3回 絶望したときどうするの?(後編)

川口好美(文芸批評家)

 このような試行錯誤のすえに、内村さんは大きなギモンをいだきます。いくらあれこれ考えたり行動したりしても、どんなに道徳的に生きても、「なぐさめ」は得られないんじゃないか、って。それなら「なぐさめ」ってなんだろう。内村さんはふと思いました。キリストは神からこの世界に遣わされたのに、なんの「なぐさめ」も与えられずに死んだ。この事実を、心の中でしずかに思い起こす時、自分は力と共にある(comfort)と感じられる。その力は自分の力ではなく、自分の外からやって来る不思議な力だ。これがほんとの「なぐさめ」なんだ、って。
 内村さんを、その後さらなる〝絶望〟が襲います。今度くわしく説明しますが、「不敬事件」という出来事に巻き込まれて仕事を失ったのです。しかも、帰国後に結婚した妻のかずさんが、事件のごたごたの中で病気にかかり、亡くなってしまいます。1891年、30歳の時でした。『余は如何にして基督信徒となりし乎』が書かれたのはその2年後です。


 みなさんはこう思うかもしれません。キリストの死が「なぐさめ」だなんて、〝絶望〟している時には、まさかそんなふうには考えられないでしょ、ある程度時間が経ったからそう言えたんでしょ、って。たしかにそうですよね。内村さんがこの本で書いたことは事実そのものではありません。それは事実をもとにしていますが、あくまでも、過去を振り返りながら作られた〝物語〟でした。
 さて、わたしからみなさんにお伝えしたいのは、こんなことです。まず、自分の〝絶望〟の意味を知るためには、〝物語〟を作り、語らなければならないということ。多少の噓や無理がそこにまじってしまうかもしれませんが、どうしても自分なりの〝物語〟が必要なのです。そして、それにはとても長い時間がかかるということ。
 内村さんは、誰よりも深く〝絶望〟し、誰よりも長い時間をかけて自分の〝物語〟を語りました。そんな内村さんの歩みに寄り添い、支えたのが、キリストの死という〝物語〟だったのです。
 みなさんのなかには、〝絶望〟して、死にたいと思っているが人がいるかもしれません。わたしはあなたに、生きつづけてくださいとは言えません。でも、ずっと心に空虚を感じ、死にたいと思っているのに、なぜかそれでも生きている自分を発見して、それを不思議に思う瞬間が、この先あなたに訪れるかもしれません。その時には、立ちどまって、過去のさまざまな出来事をゆっくり思い返してみてほしいのです。きっとどこかに、あなたの〝物語〟の芽が見つかるはずです。そしてその時、参考になるほかの誰かの〝物語〟があなたのそばにあれば、なお良いですね。内村さんにとって『聖書』がそうであったように。

〝絶望〟の先にある希望

 今回は「ヨブ記」を取り上げると約束していたのに、つい遅くなってしまいました。「ヨブ記」は、キリストの〝物語〟とならんで、内村さんが大切にしていた〝物語〟でした。もちろん、テーマは〝絶望〟です。※5
 主人公ヨブは、熱心なユダヤ教徒で、神を尊敬し、罪を犯さず、宗教上のさまざまな決まりを守ってまじめに暮らしていました。家族もいて、周囲から信頼されていましたし、財産もありました。とても幸せだったのです。ヨブはただしい人(義人)だから、神から愛されているのだと誰もが考えていました。ですが突然、大きな不幸が立て続けに降りかかって、ヨブはすべてを失ってしまいます。ヨブ自身は、耐えられないほど重い皮膚病にかかります。
 かしこい友人たちがやって来て、君にも悪いところがあったんじゃないの、とたずねます。でも、ほんとうにただしく生きてきたのだから、ヨブは困ってしまいますよね。そこで、そんなことをたずねる友人だけではなく、神を疑ってしまいそうになります。どんなふうに生きても、しょせんは人間の基準でしかなくて、神には関係がないんじゃないか。それならこれまでの自分の行動は、全部無意味だったんじゃないか。そう感じてしまう気持はわかりますよね。
 ヨブはこう言います。「大水が突然人の生命を奪っても/彼は罪なき者の困窮を笑っている※6 神は、洪水によってなんの罪もない人の命が奪われる様子を、笑いながら見ている、という意味です。読んでいるこちらの心まで切り裂かれる、ものすごい叫びですね。この時のヨブのすがたは、死のまぎわに「神はなぜ自分を見捨てるのか?」と叫んだキリストのすがたに重なります。内村さんも、このヨブの〝絶望〟のことばを何度もかみしめたのでしょう。
 ヨブの「なぜ?」の叫びに、友人たちはいろいろな角度から答えました。彼らなりにヨブを「なぐさめ」ようとしたのですね。でもヨブは「なぐさめ」られませんでした。自分の不幸の理由を説明されても、心に響かなかったのです。前回話したとおり、わたしもそんなふうに「なぜ?」と問うたことがありました。母の病気についての医学的な説明を受けて、ストレスの多い社会も病気の原因の一つなんだよと教えられても、全然「なぐさめ」られませんでした。わたしはただ、この出来事全体に意味や目的があるのかどうかを、知りたかったのです。この世界に無意味な不幸なんてないんだと、信じたかったのかもしれません。

 友人たちは、集団や社会の中の出来事の一つとしてヨブの不幸を理解します。でも、それでは〈個〉としての自分が大事にされていないと、ヨブは感じたでしょう。ヨブには、自分の〝絶望〟を他人事のようにながめて落ち着くことが、どうしてもできなかったのです。「我執」を捨てられなかったのですね。友人たちはヨブを見て、自分にこだわっているから「なぐさめ」が得られないんだと思ったでしょう。内村さんはこう考えます。ヨブは友人たちの「なぐさめ」を拒否して、自分の〝絶望〟にこだわった。だからこそ神を恨んでしまう。でも、冷静に、広い視野で考えることができる友人たちよりも、ヨブはよっぽど神の近くにいたんじゃないか、って。
「人もし死なばまた生きんや」(「ヨブ記」14章14節)
 人は死んでも、生きるのだろうか……。ヨブはこの究極の〝絶望〟の先に、希望があるのだろうか、と悩んでいるのです。そして、「ヨブ記」の結末にはたしかに希望があります。内村さんはそれを、「まことに文学として絶妙である」と言います。いかがでしょうか。わたしはこの内村さんの言い方には、〝物語〟としては素晴らしいけれど、現実がいつもそのとおりだとはかぎらないという含みがある気がします。
 内村さんが「ヨブ記」という〝物語〟を大事に思ったのは、ヨブの〝絶望〟に人間の生き方の真実を見たからです。
「暗黒中に一閃の狼煙ひらめき、またたちまちもとの暗黒となる。これ人の魂の真の実験である」※7 〝絶望〟しながら「なぜ?」と問い続けるヨブには、「凪」の心の状態はやってきません。希望の光はすぐ雲に隠れてしまうのです。
 若い頃から「なぐさめ」の〝物語〟を語ってきた自分だって、そうだったんだよ。それだから人生は面白いんだよ。年をとった内村さんがそんなふうに言っているようです。そう思えばあなたも、自分が力と共にあると、ほんの少し感じませんか?

著者情報

文芸批評家

川口好美

かわぐち よしみ

1987年大阪生まれ。2016年、「不幸と共存──シモーヌ・ヴェイユ試論」(『群像』2016年12月号、第60回群像新人評論賞優秀作)でデビュー。2021年から、静岡県川根本町の小集落・沢間で「本とおもちゃ てんでんこ」を家族で営む。著書に『不幸と共存 魂的文芸批評』(法政大学出版局)がある。

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