imidas - 情報・知識&オピニオン

連載

第14回 どんなふうに〝これから〟を生きていく?

川口好美(文芸批評家)

 さて、その後の内村さんは、パウロの手紙の研究に熱心に取り組みました。
 1921年1月から、パウロがローマの教会に書き送った手紙についての、連続講演をはじめたのです。〝ロマ書〟と呼ばれるこの手紙は、『新約聖書』に収録されているパウロの七つの手紙のうちの一つです。講演はなんと60回も行われ、内容をまとめた『羅馬書の研究』という本が、1924年に出版されました。とても分厚い本で、質、量ともに、内村さんの最大の作品と言ってもよいと思います。そこで内村さんは、自らの確信をつぎのように語っています。
〝再臨は、とうとい希望だ。でも、いくら再臨を信じても、十字架を深く信じていないなら、それは不健全だ。じつに、キリスト教の特色は、再臨ではなく、十字架なんだ〟※3
 これが「再臨運動」を経た内村さんの前に開けた、新たな景色でした。再臨より、十字架。かなり大胆なことばですね。具体的にどういうことなのでしょう。続きにはこうあります。
〝キリスト教以外の宗教にも、終末や再臨についての似たような考え方がある。でも、十字架の「贖罪」という教えは、唯一無二なんだ〟※4
 贖罪(しょくざい)。わたしがふだん使っている辞書では〝神への罪から救うために、キリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと〟と説明されています。※5
『聖書』は、『旧約聖書』と『新約聖書』に分かれている。キリスト教はユダヤ教から分岐した宗教だった。そのような話を前にもしましたよね。『旧約』にはユダヤ教を信じる人々の歴史や、しきたり、言い伝え、詩などが、まとめられています。『新約』の主人公であるイエスは、『旧約』のことばをたくさん覚えていて、活用していました。仲間や、対立する相手へのメッセージの中に『旧約』のことばをちりばめたのです。パウロの手紙にも、『旧約』のことばが数多く出てきます。人々にとって『旧約』は、身近な知識だったのですね。
 じゃあどうして『新約』が生まれたのでしょう。『旧約』だけではダメだったのでしょうか。
『旧約』の〝約〟も、『新約』の〝約〟も、約束の〝約〟です。つまり、神との古い約束が『旧約』で、神との新しい約束が『新約』。新しい約束の中心に、イエスがいた。キリスト教徒はそう考えたのです。その上で、イエスは新しい約束の証として神がこの世に遣わした神の子だったと信じるようになりました。
 でも、そもそもイエスには、キリスト教を作るつもりなんてありませんでした。まさか自分の人生について書かれた物語が『旧約』と並ぶ存在になるなんて、思ってもみなかったはずです。イエスはただ、『旧約』のことばを自分の中でよくかみ砕き、ものごとを考えるためのヒントにし、魅力的だと感じたところを他人とシェアしたのです。また、『旧約』を利用して自分の考えを他人に押し付ける人を、〝神のことばをそんなふうに使うのは変じゃないですか〟と説得しました。
 イエスはただの人間だ。わたしはそう思います。自分と他人を大切にすること。愛すること。それができれば、神の国がそこにある。『旧約』をそんなふうに読み、実行しただけです。
 とはいえ、イエスがあらわれたことで、神と人間の関係がアップデートされ、新しい次元に突入したと感じた人がいたのも、理解できる気がします。ユダヤ教には細かい決まりごとが多く、人々の生活を不自由にしている面がありました。くわしい説明ははぶきますが、そのベースには、つぎのような感覚がありました。〝わたしたち人間は堕落した、罪深い存在だ。神は、そんな人間たちに満足していない。この世界にたくさんの不幸や絶望があるのは、そのためだ〟って。※6 イエスはこうした見方を、おおらかなことばと行動によって、ひっくり返そうとしました。神は人間を信頼しているし、人間が自由に生きることを望んでいる。そう主張したのです。その意味で、イエスが特別な存在だったことは間違いありません。
 辞書の説明だけ読むと、イエスが代表して、他の人間の代わりに死んでくれた。そのおかげでわたしたちは罪から解放され、神にゆるされた。そんなふうに思えますよね。これは、キリスト教の中で現在も引き継がれている見解です。人間でもあり神でもあったイエスが十字架で死んだのは、人類の罪を浄化するための、神の計画どおりの出来事だった、と考えるわけです。
 でもわたしは、この捉え方のすべてには賛成できません。イエスを死なせてしまった苦い記憶を正当化しようとしたのではないか。イエスの死を利用して、教会の権威を高めようとしたのではないか。そう疑ってしまいます。何より、これだと、イエスがふつうの人間だったことの価値が、なくなってしまうと思うからです。
 もしすべてが予定どおりだったのなら、イエスは死の間際に、苦悩のことばを発しなかったはずですし、仲間たちも動揺する必要はなかったはずです。でも、彼らは、泣き、叫び、後悔し、絶望しました。
 わたしは、イエスの生涯の物語を、つぎのようなメッセージとして読みときたいと思います。
 予定どおりの出来事なんて、一つもない。生まれることも、死ぬことも、自分で選べるわけではない。希望も絶望も、突然訪れる。それでも、偶然に翻弄されつづける時間を、自分の人生として生きる。誰もがそうなんだ。だからこそ、厳しい決まりによって縛り合うのではなく、せめて自他の自由を尊重し合おう。おたがいに信頼し合おう。そんな約束を神と交わして、人間は新たな旅に出た。イエスの死の記憶を、十字架を、心に刻みこんで。
 だからあなたも、この新しい約束から〝なぐさめ〟(comfort)を与えられて、自分自身の旅をはじめてほしい。自分の弱さや愚かさ、自分の罪と向き合った上で、それでも自由に生きたい、愛したいと願いながら、歩いてほしい。旅の途中で、〝生まれてこなければよかった〟が、〝生まれてきてもよかった〟に変わるかもしれないから。暗闇に、光が差し込むかもしれないから……。
〝贖罪〟というアイデアを、このような意味を持つものとして未来へ手渡すのであれば、わたしは賛成です。
 気づけば、内村さんから離れていました。でも、わたしがこんなふうに考えられたのは、内村さんのことばに促されたからです。その内村さんもイエスのことばに促されて考え、そのイエスもまた『旧約』のことばに促されて考えたのです。考えること。それは、物語を読み換えていくリレーに加わり、誰かとことばを分かち合うことなのかもしれませんね。
 ここで、ちょっとだけ自分の話を挟ませてください。わたしには、いわゆる「宗教2世」の友人がいました。彼は物心がついた時には、親が信仰していた宗教を自分も信じていたそうです。主流のキリスト教会からは「異端」として扱われる宗派ですが、『聖書』を大切にしていました。わたしは、彼が『聖書』を読む様子を目の当たりにして、戸惑いながらも、感動しました。〝こんなふうに一字一句に真剣に取り組む、本の読み方があるんだ〟〝個人の苦しみや悩みを、大きなスケールの物語の中で考えることもできるんだ〟って。そこで受けた驚きが、ことばを読み、ことばを書く、現在のわたしの仕事につながっているのかもしれません。
 宗教は、人を傷つけることがあります。これまで、様々な宗教同士の争いがありました。たぶんこれからもそうでしょう。連載の第1回で触れた、山上徹也が起こした暗殺事件にも、宗教の問題が複雑に関係していました。
 だからといって、こんなものなくなればいいとは、思いません。宗教があるということ。それは、人間たちが自分の弱さや悲しみに向き合いながらリレーしてきたことばと物語が、そこにあるということだからです。

これからを生きる君たちへ

著者情報

文芸批評家

川口好美

かわぐち よしみ

1987年大阪生まれ。2016年、「不幸と共存──シモーヌ・ヴェイユ試論」(『群像』2016年12月号、第60回群像新人評論賞優秀作)でデビュー。2021年から、静岡県川根本町の小集落・沢間で「本とおもちゃ てんでんこ」を家族で営む。著書に『不幸と共存 魂的文芸批評』(法政大学出版局)がある。

関連記事

新着記事

imidasの更新情報をお届けします。