日本の大衆にとって〝知〟とは何だったのか?―タイパ・コスパ時代の「教養」と「修養」後編
(構成・文/イミダス編集部)
絢子 「修養」は太平洋戦争期に巧みに利用されたという印象です。「国家動員体制」のなかで、勤勉に働くことが〝お国〟のためになる。一粒のお米を節約することが、国の勝利につながるんだと。ひとりひとりの努力が、国家という大きなものにつながる。「修養」は本来、個人の主体的な営みではありますが、指導されてみんなで行うという集団的な性格もあり、それが発揮された時期でもあるんですね。
兵士となって戦う男性だけでなく、女性を戦時体制に組み入れるための「修養」という側面もありました。大日本雄弁会講談社(講談社)が出していて人気を博した雑誌『少女倶楽部』の昭和14年(1939年)の付録『私の修養日記』などを見ると、家のなかでお母さんのお手伝いをする、物を大切にする、近所の神社を掃除することなども「修養」で、それを実行することがひいては日本のためになるんだと説かれています。私的な行為が公的なものに接続されたのです。
戦後の占領期、様々な社会教育団体がGHQによって解体されるなか、明治39年(1906年)に創設され、「流汗鍛錬 同胞相愛」を掲げて活動していた「修養団」と、二宮尊徳の思想を軸とする「報徳会」はそれを免れたことも注目できます。どちらも勤勉努力を説く教化団体です。戦後の復興期にも「修養」の精神は生かされ、日本の高度経済成長期でさらに力を発揮した経緯があるので、「修養」は「教養」とは違う道を辿ったという印象です。
真幸 戦後の「教養」と大衆とのつながりで触れておきたいのが、吉本隆明です。彼は敗戦時に20歳ですね。戦後、いわゆる「教養」を否定した〝教養の人〟だと思うんです。彼の「転向論」(1958年)というのが、「教養」や大衆の知の在り方みたいなものを考えるうえで重要だと思う。
彼の転向の解釈はほかの人が考える転向と違うんです。一般的に転向というのは、共産主義者が警察に捕まり拷問とかされて耐えきれずに、共産主義を放棄する現象のことを指しますね。だからそれを拒んで〝非転向〟を貫いた人は偉いとも言われる。でも、吉本の解釈は違う。転向の最大の原因は、大衆からの孤立感にある、というのです。捕まったマルクス主義者、いわば「教養」を持つインテリたちですが、警察の尋問なんかを受けている間に気づくんです。マルクス主義の旗を振って、大衆を啓蒙するようなことを言っていたけど、それは外国から入ってきた知識をただ振りかざしているだけで、日本の現状や大衆の動向からはまったく遊離していて、大衆たちはそれなりに充足していた、ということにです。そこで彼らは異様な孤独感にさいなまれて、転向する。すると、吉本はこういう〝転向〟はまだマシだと。〝非転向〟を貫いた人も同じ穴の狢(むじな)というか、むしろ、もっと悪い。なぜなら、〝非転向〟の人らは、日本の現状を一貫して無視し、自分の大衆からの孤立を直視しようとすらしなかった、ということになるからです。最後まで大衆を無視して、日本の現状に鈍感だったからだという解釈なんです。
吉本には有名な「大衆の原像」という概念があって、それは大衆の側にどこまでも寄り添うということなんですね。正直、吉本の書くものは難しいので、とても大衆が読めるものではないと思うけど(笑)。つまり、「大衆の原像」は、吉本が抱いた大衆についての「幻想」だという批判は、当時からありました。それはそうなのですが、吉本が、この概念を使ってやろうとしたことには、必然性もあり、やはり一定の説得力を持ったのです。「大衆の原像」ということで吉本が追い求めたものは、日本人にとっての思想の内発性だったのです。ヨーロッパの思想家の本を読んで知識を振り回すだけではダメで、地に足がついた大衆の感覚に根をもった思想を立ち上げなければいけない、ということなんだよね。
絢子 「教養」の場合、大衆から孤立するという面は確かにありますね。大衆に寄り添いたいのだけれど、知を習得し、それを使いこなすようになればなるほど大衆はついてこられなくなる。結果、大衆を啓蒙するという立場に立たざるを得なくなり、そこに「知識人」と「大衆」という区別が生まれ、両者のコミュニケーションがうまく取れなくなってしまうんですね。
「修養」は個人的な志向ですが、「みんなで一緒にがんばりましょう!」とか「この社会をよくするために努力しましょう!」とか、徐々に集団的なものにもなっていきました。それが極まったのが戦時下で、軍国主義や錬成といったイメージがつき、戦後は「修養」という言葉があまり使われなくなったんですよね。
真幸 なんとなく古臭い言葉に聞こえますもんね。
絢子 ええ、でも「修養」は、会社の研修――「研究」と「修養」の省略形ですね――とか、「自己啓発本」や「オンラインサロン」などに姿を変えて、現在までその系譜は続いています。それらのなかには、本来は「修養」だったけれど「教養」と呼ばれているものもあると思います。
真幸 「教養」のほうも戦後やっぱり繁栄するんだよね。たとえば、戦後、丸山眞男が大活躍するでしょう。丸山は日本の「教養主義」のリーダーみたいな人ですよね。多くの人は、吉本と違って、戦争に負けたときに日本は「教養」が足りなかったからダメだったんだと考えたんですよ。もっとリベラルな思想を日本に根付かさねばという気持ちになった。その丸山を吉本は批判した。つまり、「転向論」で指摘したことですよね。丸山は大衆を無視して、ヨーロッパのかっこいい思想を使って、ただ日本を糾弾しているだけだみたいなことを吉本は感じたんです。その吉本の批判にも一理あって、「教養」が大衆のほうに向いていなかったことが、後の「教養」の大没落の始まりだったんだと思います。

『修養』という著書もある新渡戸稲造
〝意識高い系〟の若者は明治から?
真幸 日本の近代化は西洋化だったんですよね。江戸時代であれば、それぞれ身分のなかで町人なら町人の生き方みたいなものがはっきりしていた。家や村とかのことだけを考えていればよかったのに、明治維新で急に「この世界は何?」となって、「教養」や「修養」が必要とされた。急いで外国の学問も吸収しようとした。『修養』という、そのものずばりのタイトルの著書もある新渡戸稲造は、外国から入ってきたキリスト教の教えを、元々日本に根付いていた思想に「接木(つぎき)」したのだと、絢子さんの本では指摘されていますね。ただ、僕は新渡戸自身には、はっきりとしたエリート意識みたいなものはなかったと思う。
絢子 新渡戸自身は、エリートに向けた「教養」と、エリートではない大衆に向けた「修養」をはっきり分けていたわけではありません。本でも触れたのですが、新渡戸の教え子で、のちに文部政務次官になった東郷実のエピソードが興味深いです。新渡戸は『実業之日本』という雑誌に頻繁に修養に関する文章を寄稿していましたが、この雑誌は工場の読書室なんかに置かれていて、おもな読者層としては学歴が高いとは言えないノン・エリートでした。それもあって東郷は、「先生があんな大衆雑誌に書くのは面白くない」と新渡戸に苦言を呈しています。新渡戸の薫陶を受けた学生たちには、〝大衆と僕らは違うんだ〟という意識が生まれていたのです。
問題は、新渡戸がなぜ明治末に『実業之日本』で修養を語り出したかなんです。明治35年(1902年)に『成功』という雑誌が創刊されています。夏目漱石の『門』にも出てくる雑誌です。この雑誌は、スマイルズに大きな影響を受けたアメリカの著述家、オリソン・スウェット・マーデンが手がけた『SUCCESS』という雑誌にヒントを得ていて、金銭的な〝成功〟いわゆる〝アメリカンドリーム〟をつかんだ富豪のエピソードなどが紹介されています。これが日露戦争前後の日本でよく読まれたんですね。おもな読者層は、学歴による立身出世が望めないなかで上昇欲求を抱えた働く若者でした。「学歴はないけれど、成功者になりたい」という彼らの意欲を背景に、明治末に〝成功ブーム〟が起こっています。『実業之日本』でも「成功」を謳う記事や特集号がたいへんな人気となりました。
真幸 新渡戸が書いていた頃から、現在の〝意識高い系〟のような若者がいた(笑)。
著者情報
社会学者
大澤真幸
おおさわまさち
1958年長野県松本市生まれ。
東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。『ナショナリズムの由来』(講談社)で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』(岩波書店)で河合隼雄学芸賞を受賞。他のそのほかの著書に『世界史の哲学』シリーズ(講談社)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『自由の条件』(講談社文芸文庫)、『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(角川書店)、『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)、『社会学史』(講談社現代新書)、『経済の起源』(岩波書店)など。現在、月刊個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』を刊行中。
社会学者
大澤絢子
おおさわあやこ
1986年、茨城県生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了、博士(学術)。龍谷大学世界仏教文化研究センター、大谷大学真宗総合研究所博士研究員などを経て現在、日本学術振興会特別研究員(PD)・東北大学大学院国際文化研究科特別研究員。専門は宗教学、社会学、仏教文化史。著書に『親鸞「六つの顔」はなぜ生まれたのか』(筑摩書房)『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHKブックス)。共著に『知っておきたい 日本の宗教』(ミネルヴァ書房)、『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館)がある。