「光州事件」を超えて〜韓国民主化の中で40年生き続けた光州5.18を知る(中)
徐台教(ジャーナリスト)
抗争派と収拾派の争いを最終的に整理したのは、光州市内で「夜学」と呼ばれる貧困家庭への教育ボランティア事業を行っていた尹祥源(ユン・サンウォン、29)を中心とする大学生グループだった。彼らは23日に全南道庁前で「民衆守護市民決起大会」を開き抗争派の士気を高め、24日から25日にかけて全南道庁の状況室を強引に掌握した。25日の決起集会では市民軍一同による声明「なぜ銃を取るのか」が発表された。「戒厳軍の蛮行の前に、あくまで故郷を守るために銃を取った」としながら、「戒厳軍が暴徒なのか? ふるさとを守ろうと立ち上がった市民軍が暴徒なのか?」と激しく問い質した。
そして市民軍の執行部の名を「民主市民闘争委員会」に改め民主化という目的を明確に含めた。ここに空輸部隊の過剰鎮圧への抗戦から始まった光州5.18が、それ以前の民主化運動と結びついた。
民主市民闘争委員会による「80万民主市民の決議」
(1)今回の事態のすべての責任は過渡政府にある。過渡政府はすべての被害を補償し即時退陣せよ。
(2)武力弾圧だけを続ける名分のない戒厳を即時解除せよ。
(3)民族の名前で叫ぶ。殺人魔・全斗煥を公開処断せよ。
(4)拘束中の民主人士を即刻釈放し、民主人士たちで救国過渡政府を樹立せよ。
(5)政府と言論は今回の光州義挙に対し、虚偽や歪曲した報道をするな。
(6)私たちが要求するのは被害補償と連行者の釈放だけではない。私たちは真の民主政府樹立を要求する。
(7)以上の要求が貫徹されるまで、最後の一刻まで、最後の一人まで、私たち80万市民一同は闘うことをすべての民族の前に宣言する。
戒厳軍は着々と光州市内に再突入する計画を進めていた。鎮圧作戦は「尚武忠正作戦」と名付けられ、27日0時1分に作戦開始と決められた。米国(米韓連合司令官)もこれを認め、市民軍の望みは現実的に絶たれた。戒厳軍は前日26日には市民軍に作戦実行の意図を伝え、戦車は既に市内の入り口まで到達していた。市民軍もこの情報を隠さず光州市民と共有した。市民の動揺は大きく、道庁前は次第に静かになっていった。
「いいですか。韓国の民主化に影響を与え、民主主義を引き寄せられるのならば、私は私の人生を進んで放棄するでしょう。自身の信念のため、命を喜んで放棄できる光州市民たちがここにいる」。26日晩、尹祥源は外国人記者たちを前にこう語ったと、当時通訳を担当したデビッド・ドリンジャー氏は光州MBCテレビの取材で明かしている。尹祥源は「私たちが今日負けるとしても、永遠に負けはしないだろう」と抗戦の意志を改めて示した。全南道庁には200人余りが残っていた。
そして27日午前4時、第3空輸旅団選り抜きの特攻隊66人が全南道庁を一斉に攻撃した。全日ビルやYMCAなど周辺の市民軍の根拠地にも特殊部隊は押し寄せた。圧倒的な火力を前に市民軍の多くは制圧されたが、交戦のさなか発砲する機会があったというが、人を撃つ訓練を受けていない市民が兵士を撃てるはずもない。尹祥源も全南道庁別館の会議室で撃たれ息を引き取った。

「1980年代韓国の民主化は光州抗争精神によって成功した」。光州5.18を現場で取材した読売新聞記者の言葉だ。全南ビル245内に展示されている。(筆者撮影)
全南道庁で死亡した市民軍は16人とされるが、実数はこれよりも多かったとされる。こうして10日間に及んだ「光州5.18」は幕を閉じた。生前の尹祥源と親しかった李在儀氏はこれを「抗争の完成」と名付けた。(「下」へつづく)
※書名の邦訳表記および引用の翻訳は筆者による。
著者情報
ジャーナリスト
徐台教
ソ・テギョ
1978年、群馬県生まれの在日コリアン三世。小学校は朝鮮学校、中学校・高校は公立学校で学び、1999年からソウル在住。韓国の高麗大学東洋史学科を卒業後、人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年、韓国に「永住帰国」すると同時に独立。現在「コリア・フォーカス」編集長。主な取材テーマは、朝鮮半島の分断、南北関係、韓国政治など。Yahoo!ニュースや日本メディアへの寄稿・出演多数。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。2022年、「第七回鶴峰賞言論部門優秀賞」受賞。著書に『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』(集英社クリエイティブ)がある。